「怖気帳」とは、黒木あるじ氏が所有する取材ノートにつけられた名前である。
公民館や書店、学校施設等での怪談イベントや講演会の際に来場者から直接伺った奇妙な体験を綴ったもので、その厚みはなんと二千頁分もあるのだとか。
『怪談怖気帳 地獄の庭』は前作『怪談怖気帳 屍人坂』に続きシリーズ2作目で、この「怖気帳」に記された体験談の中から一度は掲載を断られたものを、話者の情報を極力秘匿した状態で日の目を見る形となった話ばかりが収められている。
それもそのはず、この「怪談怖気帳」は体験談の話の出所が明確なのだ。
全ての話には採録時期と場所、話者の年代性別および居住地といった個人情報がラベリングされている。
聞き書き形式で綴られた文章は時おり会場内のどよめきや反応、話者の狼狽や感情の変化が描かれており、記録としての側面が強調されている。
それに加えて催しの会場と話者の情報が紐付けて掲載されているために、催しの来場者が確実に「あの時あの席に座っていた人が語っていた話だな」と特定することが可能で、同時にかれらが採話の証人となる。
言い方を変えるならば、内容を大幅に改変したり体験談そのものを捏造する手は必然的に封じられている形式ともいえ、黒木氏による「怪談売買録」に続く「怪談怖気帳」は、怪談の実話性——体験者からの聞き取りによって構築されるという構造を、最も明瞭かつ読者の好奇心をそそる形で提示している。
今作では、話者の情報(採録会場や居住地等)は一部匿名で掲載されているが、「この話、外では話せないんだけど……」という禁忌と秘匿のベールを纏った怪談の「実」を、今更疑う余地はない。
「こんな怖ろしい話を、どこかの町の小さな催しに集った人から聞くことが出来るんだな」という説得力を、前作『怪談怖気帳 屍人坂』ですでに得ているからだ。
そして、話者が一度は公表を躊躇った話とだけあって、得体の知れなさと禍々しさが際立つ話が多い。
収録作の中でも、「チカちゃん」「あの日の喧嘩」などは体験者が知覚している世界に対する認知を疑うような奇異さがあり、奇獣が登場する「むかで猫のムム」はどこかSFめいている。
「地獄の庭」「第八防空壕」「わるいこ」は特に、その背景には並々ならぬ因果や悍ましい経緯があることは推測できるが、残念ながらそれらはすべて闇に葬られている。真相を知る人間はこの世を去っているからだ。
黒木氏に話を語った話者たちは、解明しようもない気味の悪く禍々しい出来事を、自分ひとりで抱えたままでは死ねないと、謎解きを託すような気持ちで黒木氏と他の来場者に語り聞かせて行き場のない感情と漆黒に塗られた謎を共有する関係を結びたかったのではなかろうか——と思わず話者の心中を探ってしまう。
これらの聞き書きされた怪談の連なりを前にすると、怪談とは、謎が謎のままであること、わからなさを目の前に提示されてる事そのものに宿る恐怖なのだ、と思わされる。
創作物のように、超常現象に因果と論理が適用されることで暴かれ明らかになるものでは決してない。怪談が私たちに与えるのはカタルシスではなく、未完成の、ピースが欠けたまま飾られているパズルのような歪さである。
そして、その歪さ、ありのままの謎に触れられる近道とは「話を聞く」こと以外にないのでは、と実感させるのが本書の肝でもある。
黒木氏は、『怪談売買録 嗤い猿』のまえがきや後述のイベントでも述べているが、既に誰かに語り聞かせて〈ブラッシュアップ〉された怪談以上に、いま初めて他人に語る原石のような怪談を聞きたい、という思いで蒐集を重ねている。
怪談ファンであれば、怪談イベントでは怪談師の話芸によって研ぎ澄まされた怪談、書籍では作家の筆力と精査によって恐怖のツボを押さえられた怪談を読むことは容易だが、怪談を求めている客を楽しませ恐怖させることを保証している、いわば商品化された怪談の対極にある原石にこそ、怪談を「聞く」という、受動に見せかけた恐怖の共犯関係に面白さの真髄があるのではないか。
先日開催された「怪談サロン 竹 VOL.1」では、ゲストの黒木あるじ氏が怪談執筆のアドバイスや裏話に加えて、表題作「地獄の庭」を含めた怪談を黒木氏自身が語りで披露している。
黒木氏は話芸も巧みで、イベント内で語られる怪談はすでに〈ブラッシュアップ〉されたものであるが、話者からの聞き取りの臨場感を感じさせる語り口で、黒木氏に話を聞かせる話者の機敏や感情の揺れといった微細な表現が盛り込まれているのが印象的であった。
文章表現との差異を楽しむという意味でも、また本書の執筆背景を知るという意味でも、この配信は是非ともおすすめしたい。
卯ちり
2019年より実話怪談の執筆と語りの活動を開始。
最近はオープンマイクの怪談会や怪談に的を絞った読書会を不定期に開催している。
共著に『秋田怪談』『実話奇彩 怪談散華』(いずれも竹書房怪談文庫)等。