シーンで活躍する怪談語りを深堀りするインタビュー企画「怪談語りがたり」。
5回目に登場するのは響洋平さん。
世界的なDJとして、そして怪談語りとして活躍し続ける彼のエピソードを紹介したい。
(インタビュー・写真●怪談ガタリー編集部)
人生で最初の怪談取材
——響さん、今日はよろしくお願いします。まず幼少期についてお話を聞かせてください。
「よろしくお願いします。僕は京都府北部の生まれで、家族構成は父、母、兄、姉、そして僕です」
——響さんは末っ子なのですね。こう言うと失礼かもしれませんが、意外でした。
「あまりこういった話をしたことがないので、照れますね(笑)」
——どのようなお子さんだったのでしょうか?
「変わった子だったと思います。物心がついた頃にはお化け、妖怪が好きになっていました。お化けの絵本とか、水木しげるさんの本をよく読んでいましたね。なぜか怖い話に惹かれたんです」
——それは、いわゆる“怪談”とは違ったものだったのですか?
「そうです。怪談ではなく、昔話や妖怪譚でしたね。でも、そんな僕の“怖い話観”を変えた出来事があったんです。小学校に上がる前の時期のある日、近所に住む2歳上の友達に『響くん、怖い話したろか』と言われて。僕が『してして』とねだると、彼は『ある警備員の男がビルを巡回していたら、火の玉を見た』という話をしてくれたんですよ」
——シンプルな怖い話ですね。
「僕は本で散々火の玉を見てきたんで『なんだ、火の玉か……』くらいの感想だったんですが、その後に彼が放った一言を聞いて衝撃を受けたんです」
——どんな言葉だったのですか?
「彼は『これは本当にあった話なんだよ』と言ったんです。それが衝撃的でした。僕が今まで接していた怖い話は、あくまで本の中の世界、フィクションのことだったんです。それが『本当にあった話』と言われて、びっくりしてしまったんですよ」
——今まで考えたこともない世界の扉が開いたと。
「その後偶然にも、『近所のおばさんが火の玉を見た』という騒動があったんです。それが噂になって。両親は『見間違いじゃないの?』という反応だったのですが、僕はおばさんの家を訪ねました。『火の玉を見たって聞いたんだけど、詳しく教えて』って。おばさんは『川のそばの竹藪に、2つの火の玉が浮いていたのよ』という話をしてくれて。それを聞いて、すごくワクワクしたことを覚えています」
——まさに、人生初の怪談取材ですね。
「ある意味そうかもしれません(笑)」
——他に幼少期のエピソードはございますか?
「そうですね……。幼稚園で粘土遊びをしたとき、僕は粘土で黙々と仏像を作っていましたし、友達に昔話を語って聞かせていた記憶があります。母によれば、おしゃべり好きで楽しい子だったそうです」
——その頃から、お友達に語って聞かせていたのですね。得意な話は何でしたか?
「『耳なし芳一』です」
——響さんが小さい頃は、本だけでなくテレビでも怖いコンテンツに触れることができたと思いますが、いかがでしょうか。
「もちろん、オカルト系のテレビ番組も好きでした。『あなたの知らない世界』だったり、宜保愛子さんの番組だったり、矢追純一さんのUFOスペシャルだったり……。小さい頃は目を輝かせながら観ていましたね」
音楽の目覚め
——響さんといえばDJとしての輝かしいキャリアをお持ちですが、幼少期から音楽は好きだったのでしょうか?
「祖母がピアノの先生をしていた関係で小さい頃にピアノを習っていましたが、それほど熱中しませんでした。ただ父がカントリーミュージック好きで、趣味でギターやバンジョーを弾いていたんですよ。それは強く記憶に残っていて、今でもカントリーミュージックを聴くと懐かしい気持ちになります」
——音楽的なターニングポイントは何だったのでしょうか?
「僕が中学生だった1993年に、YMOが東京ドームで再結成ライブをしたんですよ。そのライブ映像をたまたまテレビで見て、もの凄い衝撃を受けました。今まで聴いたことがない音楽だったんですよ。そこから自分で調べて色んなジャンルの音楽を聴き漁るようになって、民族音楽、テクノ、ヒップホップなどのクラブミュージックを聴くようになりました。周囲の流行とは断絶していましたね」
——周囲の友達と話は合ったのですか?
「『僕は周りのみんなとは違うんだ』とアピールしたかったわけではなくて、友達が観ているようなコンテンツにも興味はあったんです。でも、当時流行っていた『キン肉マン』や『ドラゴンボール』のような連載ものが苦手で、話についていけなかった。だから1話完結の『まんが日本昔ばなし』ばかり観ていました。映画も好きでしたよ。特にスティーヴン・キング原作の映画が好きで、原作と併せて楽しんでいました。そんなふうに、音楽も映画も自分が好きなものばかり追いかけ、突き詰めていた気がします」
——高校時代はどうでしたか?
「高校時代は音楽に熱中していましたね。ローランドのシンセサイザーをいじったり、ギターをかじったり。ジャンルはテクノというか、シンセバンドというか、そんな感じです。ほぼ独学で、見よう見まねでした」
——高校時代の印象に残っているエピソードはありますか?
「文化祭でクラスの演劇があったのですが、練習が嫌で音楽担当をやらせてもらうことになって。劇中の音楽をほぼ全部シンセサイザーで作曲したんですよ。だから、僕だけ劇の練習を免除されたわけです。それを許してくれた先生や友達に感謝しています」
——高校卒業後は?
「大学に進学するために上京しました。音楽は続けながら怪談にも接していて、稲川淳二さんの怪談はよく聴いていましたね」
——響さんは稲川さんがお好きですものね。
「初めて稲川さんの怪談に触れたのは、小学5年生のときに観たテレビ番組だったと思います。そのとき語っていたのが『樹海の声』という話で、めちゃくちゃ怖かった。それ以来、稲川さんの怪談を聴き続けています」
——それは大学時代も変わらなかったと。
「大学時代は建築を学んでいたのですが、寝る間もないくらいめちゃくちゃ忙しくて。何日間もぶっ続けで課題の製作をしていたときに、1時間だけ仮眠しようと自宅のアパートに帰ったんです。そのときふと、『この1週間、自分が好きなことを全然やれてないな』と気付いたんです。そこで稲川さんの怪談ライブを聴きながら仮眠したのですが、とても心地よくて癒されました」
——大学卒業後はどうでしたか?
「色々な仕事をしながらDJ活動をしていました。本格的なDJになったきっかけは、渋谷のディスクユニオンでストアイベントのDJを募集していたことなんですよ。カセットテープに30分ほどのDJミックスを録音して送ったら、採用されました。それが初めてのDJプレイでしたね。ツテはなかったので、とにかく、誰よりも早く音を繋ぐ技術やスクラッチを磨こうと決めたんです。ひたすら練習をしていましたね」
——そこから様々なクラブに出るようになったのですか?
「少しずつ僕のことを知る人が増えてきて、あるとき声がかかってベトナムでDJをする機会に恵まれたんです。2003年頃のベトナムはヒップホップが主流だったのですが、僕がやった4つ打ちと呼ばれるテクノがとてもウケたんですよ。それから人脈が広がって、台湾やフィリピンでもDJをしました。そして2005年に、スクラッチDJバトルで優勝することができました。そんな時期であっても、ツアーの移動中はずっと怪談を話していた記憶があります(笑)」
「はすとばら」の思い出
——当時も怪談取材はしていたのですか?
「当時所属していた事務所の人だったり、ツアースタッフに怖い話を聞いていましたね。地元にA君という友人がいて、僕が故郷を離れた後も週2、3回電話をするくらい仲が良かったんです。僕が聴いた怪談を語ったり、彼も怪談を話してくれたりして。音楽仲間とも、よく怪談を披露し合ってしていましたね」
——そこから、響さんが主宰していた渋谷「はすとばら」での怪談イベントに繋がっていくと思うのですが。
「僕と怪談好きのDJ仲間でスクラッチの講習会をしていて、その会場が渋谷のはすとばらというDJバーだったんです。その休憩時間に『やることがないから怪談をしようか』ということになり、みんなで怪談を語り合っていたんですが、回を重ねるごとに怪談の時間が長くなったんです。最終的に『DJいらなくない?』って(笑)。それからDJ仲間とか、お店の常連さんと朝まで怪談を語る飲み会的な時間になりました」
——そのときはまだ「怪談イベント」とは銘打っていなかったわけですね。
「2010年だったと思うのですが、地元のA君が東京に遊びに来ることになったんです。当然のようにはすとばらに誘ったんですが、『A君にドッキリを仕掛けてやろう』と思い立ちまして……」
——ドッキリですか?
「特別にお客さんを呼ぶ意図はなく、A君を脅かすためだけに『怪談イベント』を企画したんですよ。お店のブログに『渋谷怪談会』という名で告知を出して、『ゲスト怪談師』として無許可でA君の名前を載せて、彼のプロフィールをもっともらしく僕が書いたりしました。『幼少の頃より怪談に勤しみ……』みたいな(笑)。A君が東京に着いたその日に、お店のブログを見せたんですよ。『A君、こんなことになってるからね』って」
——Aさんはどんな反応でしたか?
「彼は心底びっくりして、『俺、こんなのに出れないよ。ただの飲み会だと思ってたのに……』と言っていました。ドッキリは大成功でしたよ。そしていつも通りの飲み会だと思ってはすとばらに行ったら、ブログを見た人で店がパンパンになっていたんです。驚きましたね……」
——響さんもドッキリにかけられたような状況ですね。
「そのときに来てくれたのが、ぁみさんといたこ28号さんだったんです。おふたり含め、知らない人ばかりで僕は緊張でガチガチでした。怪談を語った後に『どなたか話しませんか?』って聞くと、いたこさんがまっっっすぐ手を挙げたんです。『このおじさん、ヤバいな』と思いつつ怪談をお願いすると、えげつないくらい怖い話をしてくれたんです。そうしたきっかけで、いたこさんと仲良くなりました。ぁみさんは後ろのほうでニコニコしながら怪談を聴いていたのですが、一緒に来ていた後輩の芸人さんがぁみさんを紹介してくれたんです。それから仲良くなりました。家が近かったこともあって、よくふたりで飲みに行くようになったんです」
——そういった出会いだったのですね。
「ある日、いつものように家の近くで飲んでいたときにぁみさんから『今度怪談ライブをやるんですが、響さん出てくれませんか?』と言われたんです。『僕でよろしければ』と答えて、それがはすとばら以外で最初の怪談ライブ出演になりました」
——その時期、他に出会いはありましたか?
「同じ時期に怪談作家の宍戸レイさんとも知り合いまして、宍戸さんからも怪談ライブに誘われたんです。そのときに住倉カオスさんに出会って、後にはすとばらの怪談飲み会に来てくれたんですよ。そこから住倉さんとも仲良くなりました」
——はすとばらという場所が、色々な方の縁をつないだわけですね。
「そう言えるかもしれません。本当にご縁に恵まれたと思っています。はすとばらのイベントには妙なグルーヴ感があって、怪談好きではないお客さんやバイトの子が、『実は私も……』と語り出す瞬間がたまらなかった。あの空間、時間は忘れられないですね」
DJとして世界的に活躍しつつ、怪談シーンにおいも着実にステージを増やしていった響さん。
この続きはまた次回、お届けしたい。
インタビュー後編は10月29日公開予定