禍夏再訪 後編

その日、綾は裕子と最寄り駅を三つほど離れた区立図書館にいた。
目的はこの地域の伝承について書かれた文献探しだ。
先ほどから裕子はめぼしい書籍をいくつもテーブルに積み、二時間ほど難しい顔で読み込んでいる。
綾は横のソファで適当な本を手に取ってパラパラとページをめくっていたが、おもむろに立ち上がって、裕子の前に読んでいた本のページを開き、差し出した。
「これ。詳しくは分からないけど、ちょっと似てない?」

―【祖樹祭(そじゅさい)】
〇〇県▲▲地区において、文月(7月)に行われ、樹木に宿る神様に神籬(ひもろぎ)まで降りてきてもらい、舞を奉納して次年の豊穣を祈る神事。

裕子はページをしばらく覗き込んだあと、綾を見上げて、にやりと笑った。
「助手にしてはやるじゃん」
「いつ助手になったのよ」
「ごめんごめん。でも、確かに似てる。”祖樹祭”か……」
「家に戻って色々聞いてみたら? お父さんなら何か知ってるかも」
まずは両親に尋ねてみるのが早いだろう。
「そうだね。聞いてみるか」
じゃあさっそく、と立ち上がる綾に裕子が声をかける。
「――ごめんだけど、綾は先に戻ってて」
「なんで? あんたは?」
「ん-、ちょっと他にも調べたいことがあって」
そういって裕子が積んである本の表紙をトントンと指先で叩いた。
「分かった。晩ごはんまでには戻りなよ」
「お母さんみたいだね」
笑う裕子を残して綾が図書館を出る。
エントランスを抜け、二階の窓を見上げるとカーテンの開いた窓際に、裕子の丸まった背中が見えた。

「——それで、何か分かった?」
夕食のカレーをよそいながら、椅子に座って携帯を触っている裕子に声をかける。
「うん。まぁ、いろいろと」
裕子は携帯に視線を落としたまま曖昧に返す。
思っていたより薄い反応だった。
てっきり嬉々として喋り始めると思っていたのに。
「そうだお父さん。”祖樹祭”って知ってる?」
ソファでテレビで野球観戦をしている父に水を向けてみる。
「そじゅさい……あー、昔、確か親父が言ってたなぁ。確か、ここいらで祀ってた木の神様? の祭りだったような……」
「それそれ。確か、この村に大きな樹があって、それを神様として祀ってたっていう話」
「そうだったかな。まぁ、知ってるは知ってるけども、実際に見たことはないぞ。なんせ何十年も前だから。まぁ、ばあさんならなんか分かるかもしれんね」
「そのお祭り、どこでやっていたかはご存じですか?」
携帯を見ていた裕子が口をはさんだ。
「いやぁ、どうだろう……。そもそも樹を祀る祭りっていうぐらいだからね。そんな樹があればすぐ分かるんだろうけど。まぁ、明日病院まで行くから、そこで聞いてみるといいよ。最近ばあさん、頭がハッキリしてること多いんだ。上手くいけばいろいろ話してくれるんじゃないか?」

風呂を終えて部屋に戻ると、裕子は持参していたパソコンを開いていた。
「何それ?」
「んー、オカルト掲示板」
バスタオルで髪の水気を取りながら横からのぞき込む。
「本当好きだねえ」
内心呆れながら、ベッドに座ると裕子が椅子を回転させてこちらに体を向けた。
「ねぇ、あの『怪談』覚えてる?」
裕子の言う怪談とは、ここに来ると決まる前に話していたものだろう。
「あー、前にネットで調べてた怪談?」
「そう。なんか引っかかるんだよね……」
「どうせ誰かの作り話でしょ」
「うん。私もそうだと思う……。けど、それだけじゃない気がするんだよ。上手く言えないけど……きっとまだ何かある」
「なんでそう思うの?」
「勘」
鼻で笑う綾に裕子は真っすぐな目を向けていた。

翌日は朝から小雨が降り続いていた。
深夜までパソコンに向かって熱心に調べ物をしていた裕子はまだ眠そうな目をしている。
「ここからだと、だいたい車で二十分ってとこだな」
運転席に座った綾の父が話す。
母は自宅で留守番をしているので、今回は裕子を連れて三人で病院まで行くという。
祖母が入院している柏原総合病院は、戦後間もない頃に建てられた。
元々集落の中心にあった位置に建設され、隣接する小高い丘も、広々とした見晴らしのいいスポットとなっている。
簡易なアスレチック遊具も設置され、病院の窓からは、子供たちが駆け回る様子を見ることができる。
「入院が決まったとき、珍しく一つだけ、ばあさんからお願いされたんだよ」
病院への道すがら、運転席の父が口を開く。
「どんな?」
「『あの丘が見える部屋にしてほしい』って」
綾の脳裏に、まだ元気だったころの祖母が浮かぶ。
「病院の裏手に小さな丘があるだろ? あそこからは、景色は良いし、ばあさんが育った集落の辺りだって一望できる。だから父さんも母さんも賛成したんだ。ばあさんも、ほら……もう長くないだろ?」
祖母の体が癌に侵されていると分かったのは、三年ほど前のことだった。
癌が判明してから長い間、治療を続けてきたが、その体にいよいよタイムリミットが迫っているということは、両親から祖母の近況報告を聞いていた綾も感じていたことだ。
高い山に囲まれた、緑ばかりのつまらない景色。
息が詰まりそうな山間の村で祖母は生まれ育った。
その景色を眺めながら老いて死んでいく祖母の人生は、一体どんなだっただろう。
この村と隣町でしか過ごしたことのない祖母は、死にゆく間際に果たして何を思うのだろうか——。
早々に見限り、この地と決別した綾には見当もつかなかった。

一階の総合受付で祖母の名前を告げ、看護師さんから首からぶら下げられるパスカードをそれぞれ受け取る。
外観もそうだが、病院の内部も清潔に保たれており、内装だけ見れば、ここが近代美術館と言われても、さほど違和感もないように思える。
「キレイな病院だねー。美術館みたい」
隣を歩く裕子も似たような感想らしい。
広々としたエレベーターで5階まで上がり、廊下を突き当りまでいくと、ネームプレートに祖母の名前が
書かれてあるのを見つけた。
【508号室 須藤 幸】
スライドのドアを開けると、部屋の一番奥の窓際、そのベッドの上で上半身を起こした祖母が、窓の外を眺めている横顔が目に入った。
「ばあさん、今日は綾が来てくれたよ。ほら、お友達と一緒に」
そう声を掛けながら綾の父が部屋の中に入る。
二人もそれに続いて足を踏み入れた。
窓から差し込む陽の光が充分に取り入れられ、日当たりが良い部屋だ。
白い壁には、どこかの外国の風景を模した絵画が掛けられている。
「お祖母ちゃん」
綾が声をかけると、外を眺めていた祖母がゆっくりと顔を向けた。
「——どこぞの美人が来たんかと思たわ」
皺が深く刻まれた祖母の目に優しさが宿る。
そのことが綾の緊張をいくらか和らげた。
「久しぶり。元気そうだね。こっちは友達の裕子。夏休みだからうちに遊びに来てくれてるんだよ」
「はじめまして。綾の友達の裕子です」
横から裕子が丁寧にお辞儀をすると、祖母がにっこりと微笑んだ。
「ありがとうなあ。わざわざこないなとこまで来てくれて」
置いてあったパイプ椅子に腰かける。
そこからは祖母を中心にして、他愛もない話に華を咲かせた。
「そうだ、ちょっと待ってて! 」
何かとても楽しいことを思いついたかのように、裕子が突然声を上げて病室を出ていった。
その背中をぽかんと見送っていると祖母がつぶやく。
「なんや忙しない子やなぁ……」
しばらくして、車いすと共に戻ってきた裕子が「散歩に行きましょう」と祖母を誘う。
そうして祖母を車いすに乗せ、裕子と綾は窓から見える広場へ向かった。
「たまには外の空気を吸うのも良いでしょ」
そういいながら楽しげに笑う裕子を見ていると、なぜだかこちらまで楽しくなる。
祖母もずいぶんと血色が良く見える。
「こんなに楽しかったのは久しぶりやわ。ありがとう」
部屋に戻った祖母が綾と裕子それぞれの手を握りながら感謝の言葉を告げた。
「こちらこそ。とっても楽しかったです」
裕子が手を添えて言葉を返す。
思えば裕子の持つ明るさは、自身だけでなく周囲まで照らすような稀有なものだ。
この明るさに綾自身、知らずのうちに救われているのだろう。
「——それでね、お祖母ちゃん。実は大学の研究でこのあたりの伝承とかを調べてるんだけど」
すっかり忘れていた。
裕子の言葉で綾はもう一つの目的を思い出す。
「伝承?」
言葉の意味自体が分からない、というように祖母が疑問符で返す。
「そう。昔ながらの風習とか。村でのおまじないとか。お祖母ちゃんが小さい頃、村のどこかに大きな樹があって、それを神様として祀る『祖樹祭』っていうお祭りがあったと思うんだけど、覚えてないですか?」
「祖樹祭……」
「そうです。樹の神様にお祈りして、次の年の村の豊作を……祈るっていうお祭りなんですけど……どうかしましか……?」
「神様……」
裕子が話すたびに、急速に祖母の表情が暗く沈んでいくのがありありと見て取れた。
裕子自身も感じ取っているらしく、声に戸惑いが滲んでいる。
祖母は険しい顔で押し黙ったまま何かを深く考え込んでいた。
「お祖母ちゃん? 大丈夫?」
綾が声をかけるが、祖母は口を開かない。
裕子と目が合う。
「ある年の夏に……」
祖母が消え入りそうな声でつぶやく。
「……酷い日照りが続いたんや。何日も、何日も——」
ゆっくりと、確かめるような祖母の口調は酷く重々しい。
「食べるもんなんか何もあらへん。だから食べられそうなもんは、なんでも食べた。ホンマに村中が酷い有り様やった。その年に、弟が死んでしもうてな。かわいそうに……」
痩せたため息をついて、祖母が続ける。
「それで、村の衆がみな「あれ」の元へ行ってなあ。『助けて下さい堪忍して下さい』言うて。神頼み、言うやっちゃな。そんだら、すぐに雨が降って……」
訥々と話す祖母の声は心なしか震えてるように思えた。
「……神様に祈りが通じたんですね」
そう裕子が小さく呟いたが、続けて祖母が言葉を吐いた。
「——おらん」
「え?」
「神様なんか最初からおらん。ここにあるのは——」
皆、押し黙ったまま、祖母の次の言葉を待ったが、いつまで待っても祖母は次の言葉を口にしようとはしなかった。
重苦しい空気が病室に流れる。
重い空気を変えようと裕子が再度切り出した。
「……じゃあ、こんな話は聞いたことないですか? 昔、この村には若い一組の男女がいた……。二人は深く愛し合っていたが、身分の違いから親族に猛反対された末、ある晩、村の大樹の下でガソリンを被り心中を図った。しかし死んだのは女の方だけで……」
裕子が話し出したのは、ネットで見つけた怪談話だ。
「——そこで看守が調べると、男はすでに布団の中で絶命していた……。そんな話です」
静かに話を聞いていた祖母は、裕子が話し終えると、閉じていた目をゆっくりと開けた。
「この怪談、聞いたことないですか?」
裕子がもう一度確かめるように尋ねるが、反応がない。
「おばあちゃん?」
「——蔵」
「え?」
蔵。
確かにそう聞こえた。祖母が再び窓の外に視線を向ける。
「……おばあちゃん?」
しかし祖母はそれ以降口を閉ざし、首を小さく左右に振るだけで、何を尋ねても答えてくれなくなってしまった。

「怒らせちゃったのかな……」
帰り道の車内で、珍しくへこむ裕子を見て、綾は「大丈夫だよ」と根拠のない言葉をかけることしかできなかった。
祖母の暗く沈んだ瞳を思い出す。
さっきの様子からして、祖母は間違いなく何か知っているのだろう。
ただそれがいったい何なのか見当もつかない。
今はとにかく、祖母の言った「蔵」に何かあると信じて調べてみるしかない。
窓の外では、先ほどまでいた病院が丘の上で明かりを灯し、まるで燃える大木のように煌々と光を放っていた。

クダマツヒロシ
兵庫県神戸市出身。
幼少期から現在に至るまで怪談蒐集をライフワークとしている。
2021年に怪談語りと執筆活動を開始。23年に怪談マンスリーコンテスト「瞬殺怪談」企画にて、平山賞・黒木賞をW受賞し商業誌デビュー。24年、初の単著「令和怪談集 恐の胎動」刊行。

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