怪談語りがたり 大赤見ノヴ Part II 前編

シーンで活躍する怪談語りを深堀りするインタビュー企画「怪談語りがたり」。
今回はナナフシギの大赤見ノヴさん編、第2弾。
ナナフシギ結成、YouTubeチャンネルのスタートなどに関するエピソードを紹介する。
(インタビュー・写真●怪談ガタリー編集部)

大赤見ノヴ 1979年8月12日生まれ 大阪府住吉区出身

ナナフシギ結成

——前回は、ノヴさんがお笑い芸人として大きな転換期を迎えたところまでお話しいただきました。その後はどうなったのでしょうか?

「40歳の手前になって、これからどう活動していこうかを考えていた頃、たまたまYouTubeで(吉田)猛々さんのコンビのネタ動画が流れてきたんです。それを観て、改めて猛々さんのお笑いが印象に残ったんですね。そして『猛々さんのコンビに俺が入ったら面白いんじゃないかな』って思いました」

——そこで猛々さんたちに声をかけたと。

「そうです。それで『試しに3人でネタをやってみようか』っていう流れになったんですよ。僕の中ではいい感じで、所属していた太田プロにも誘ったんですが、色々あって猛々さんと僕がコンビを組むことになりました。その時、猛々さんに『3年でバイト生活を終わらせるんで、時間をください』と言いました。同時に『コンビの方向性は全部俺に任せてください。猛々さんはネタ作りに集中してください』とも話しましたね」

——猛々さんはどのような反応だったのですか?

「納得してくれましたよ。そして僕は怪談の仕事が増えてきた時期だったし、猛々さんもオカルトが好きだった。先々にそういう仕事をすることも見据えて、オカルトにまつわるコンビ名にしよう、ということになったんです」

——スムーズに『ナナフシギ』という名前に決まったのですか?

「そうでもないんですよ(笑)。オカルトに関係する言葉がことごとくダサくて……。『かなしばり』とかね(笑)。昼間のカラオケボックスで猛々さんと話し合いました。その中で『ナナフシギ』っていう言葉が出たんです。画数(13画)も良かったので、その名前に決まりました」

M-1グランプリ出場

——それから猛々さんが太田プロに入ったわけですね。

「そうなんですよ。でも僕はコンビを組み直し、他の事務所から相方を連れてきた。そんな状況だったので、事務所ライブの6軍のネタ見せからリスタートしました。2018年のことでしたね。
その挨拶回りをしていた時、事務所に『M-1グランプリが始まるから、エントリーしておくね』って言われたんですよ。『予選はいつですか?』って聞いたら『2週間後だよ』って。僕らはネタ合わせすらしていない状態だったのですが、『やってやろう』と思いました。6軍のネタ見せに行くと若手だらけの中で見せしめのようにダメ出しをされたのですが、僕は逆に火がついたんですよ。『M-1でいいところまで行けば、この状況を一気に逆転できる』と確信したんです」

——どのような目標を立てたのでしょう?

「準決勝進出です。実際に、3回戦までは順調に勝ち進んだんですよ。お笑い芸人にとって3回戦は鬼門とされているので、ここを越えれば周りからも一目置かれるわけです」

——3回戦はいかがでしたか?

「会場は新宿のルミネtheよしもとで、僕たちのことを知らないお客さんばっかり。だから猛々さんと『いつもと違うツカミでいこう』という話をしたんですね。でも、ものすごい緊張のせいで猛々さんが打ち合わせと違うことをしたりして、最初の流れを掴めなかったんです。でもネタをしながら臨機応変に対応していたらウケてきて、猛々さんもどんどんエンジンがかかって。最後は大きな拍手と笑いに包まれて舞台を降りることができました」

——結果はどうだったのでしょう?

「『これは逆転勝ちや。絶対次に行けた』っていう感触を得たんですけど、ダメでしたね」

——事務所内での風向きは変わったのでしょうか?

「3回戦に出ていた太田プロの別のコンビが勝ち上がって、事務所はそっちを推すようになったんです。僕らはチャンスを逃してしまったんですよ。そこで足りない部分を整理して、少しずつ『お笑いのネタ以外の方向でテレビに出ていかなければならないな』って思うようになったんです。それから1年くらいは猛々さんと漫才を続けたんですが、事務所のピラミッドの上に行っては戻される、っていうのを繰り返してしまって。突き抜けることができませんでした」

YouTubeチャンネル始動

——怪談系のお仕事はいかがでしたか?

「コンスタントにやっていましたよ。その頃に関口ケントさん(株式会社Wednesday代表取締役、ナナフシギチャンネルのプロデューサー)の名前が挙がって、事務所が僕らのYouTubeチャンネルの制作を頼んだんです。当時は、お笑い芸人がYouTubeをやるのは邪道な雰囲気もありましたし、YouTubeの収益で生活するイメージがまったく湧きませんでしたね。でも『活路を見出せるのはこれなんじゃないか』っていう不思議な予感があったんです」

——関口さんといえばナナフシギさんにとって欠かせない人物だと思いますが、ファーストインプレッションはいかがでしたか?

「彼、会う前から無理難題を出してきたんですよ。『12本分の動画のネタを作って、撮影日に持ってきてください。どういうYouTubeチャンネルにするかも考えてきてください』って。普通は『はぁ?』となると思うんですが、僕は動画6本分の自分の体験談を用意しました。同時に『このYouTubeチャンネルはナナフシギの2人でやるべきだ』と思っていたので、猛々さんにもネタを用意してもらうことにしました」

——猛々さんどのような話題だったのですか?

「UMA(未確認生物)です。それを僕の怖い話と合わせて、総合的なオカルトYouTubeチャンネルをやりたい、という案を作りました。それで撮影日に関口さんの事務所に行ったのですが、関口さんがいないんですよ。彼は遅れて来て、第一印象は最悪でした(笑)。『ウイッス、ウイッス』みたいな(笑)。しかもすぐに出て行っちゃうし。関口さんは関口さんで『汚いオッサンたちが来たなぁ』と思っていたそうです」

——あまりよろしくない初遭遇でしたね(笑)。

「関口さんは太田プロの依頼ということで引き受けたわけですが、僕らみたいなオッサンには何もできないだろうと思っていたそうなんです。12本の動画をやらせたら、絶対に手を抜くだろうって。それを口実に突き返そうと思っていたみたいで。でも僕は『ここがチャンスだ』と思っていたので、かなりの完成度のネタを披露したんです。しっかり仕上げていきましたからね。そうしたら、撮影を見ていた一人の偉い人が『面白いね』って言い出して、YouTubeチャンネルがスタートすることになったんです」

——もの凄い速度で事態が動き始めたわけですね。

「撮影から1週間後にはチャンネルが始まって、すぐ次の撮影のスケジュールが送られてきたりして。最初はついていけないスピード感でしたね。再生数も伸びなかったですし……。でも、自分たちが主役である程度好きなことができる場でもあったんです。同時に『猛々さんの面白さも100%出せるな』と思いました。『ここで自分たちの色を出していこう』っていうスイッチが入ったんですよ」

——お笑いからYouTubeのほうにシフトしていったわけですね。

「YouTubeも含め、怪談に割く時間がどんどん多くなりました。必然的に怪談イベントのオファーが増えましたし、主催イベントも開催していました。見よう見まねでYouTubeコラボもしていたのですが、次第に『自分たちと仲の良い人たちがほしいな』と思うようになっていたんです」

——一緒に切磋琢磨をする仲間でしょうか。

「そうです。当時僕が主催の『怪談パーティー』、略して『怪パ』っていうイベントをやっていたのですが、僕が誘ったメンバーが今でも仲の良い奴らなんですよ。それがヤースー、ハニトラ梅木、ガンジー横須賀、川口英之たちで、『怪パ』をやっていた時期にそれぞれがYouTubeをやり始める流れになっていたんです。『YouTubeで怪談を盛り上げることができたら、みんな一緒に楽しくなれるんじゃないか』。そう思いましたし、自分自身で怪談の世界を開拓していけば、メインロードを走れるんじゃないかと考えるようになりました」

コロナ禍における変化

——YouTubeに本腰を入れるようになったのはいつ頃のことでしたか?

「コロナ禍が始まる直前の2020年だったと思います。それからコロナ禍に入って漫才も怪談もイベントが全部中止になり、世の中が自粛ムードになってから、少しずつYouTubeチャンネルの再生数が伸びていったんですよ。関口さんは気にも留めていなかったようですが、僕は彼を味方に引き入れた方がいいと思っていて。『どういう風にしたらひっくり返るかな』と思ったときに、『何かでバズれば推してもらえるかも』って思ったんですよ。だったら、オカルト系YouTubeのトップの人と絡めばいい。そこで思い浮かんだのが島田秀平さんだったんです」

——『島田秀平のお怪談巡り』ですね。

「はい。そこでバズらせるにはどうしたらいいかを考え抜いて、『大赤見家の呪い』にまつわる話を怪談として披露しようと決めました。同時にこの話は、僕自身の人生の振り返りでもあるんです。当時の島田さんのチャンネルでは、めちゃくちゃ強い家系にまつわる体験談を披露している人がまだいなかったんですよ。だから『これはいけるぞ』と。それで島田さんのチャンネルとコラボすることになって、『怪談を2本持ってきてください』と言われまして。そこで大赤見家の話を前後編に分けて話をさせてもらうことになりました」

——その頃、島田さんのチャンネルで前後編に分かれた怪談を話す人はいなかったのでしょうか?

「誰もいませんでしたね。そして僕らのチャンネルに島田さんが出るですが、ただ島田さんに怖い話をしてもらうだけでは、チャンネル登録者数は伸びないと思ったんです。そこで閃いたのは、島田さんの代表作である『13怪談』のアンサー怪談を、僕のチャンネルで僕が話すということでした」

——それはかなり斬新な試みでしたね。

「かなり上手くいったんですよ。チャンネル登録者数が一晩で1万5000人くらい増えたんです。『これがバズるっていうことなんや』って思いましたね」

ノヴさん編の最終回となる次回は、独立やGMKの誕生に関するエピソード、今後の展望などをお届けしたい。

インタビュー後編は近日公開予定

リンク
ナナフシギ【公式】(YouTubeチャンネル)
清浄と誤怪展―。

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