ファン・ファン・ファン・アウトのファン(3)

 わたしの全身は夢から得た不快な緊張から生まれたぬめぬめとした汗と、行為中ににゃんころみーこが吹き出した愛液にまみれていた。元来わたしがワキガであることも手伝い、ナンプラーを何滴か身体に垂らされたような臭気が部屋内を満たしていた。ラブホテルの薄暗い照明が、わたしの肌にまとわりつく湿気を一層際立たせ、鏡に映る自分の姿はまるで深海の生物のように不気味に揺らめいていた。
 にゃんころみーことラブホテルに行くのはとても簡単なことだった。正直、今に及ぶまでわたしは何一つ努力をしていないと言えるほどだ。というのも、チンポッコが入る雑居ビルの階段を降り、商店街の通りに出ると、仁王立ちのにゃんころみーこがいて、わたしが会釈をして横を通り過ぎようとした刹那に、手を握られたのだ。彼女の手はひんやりしていたが、とても柔らかかった。わたしにとって妻と娘以外の女性の手を握ったのは、実に十四年ぶりのことだった。にゃんころみーこはわたしの左手を握っていた。彼女はわたしの利き手を最初から知っていたのかもしれない。
 鋭敏なわたしの左手が今まさに女体に触れている。
 この考えがビックバンを起こし、わたしは即座に勃起した。
 耳を澄ませば、じょろっ、という音が聞こえそうなほどの量のカウパー粘液が亀頭の割れ目から飛び出し、わたしの下着を汚した。ともすれば、黒地のスキニーにまで粘液の染みが達していたかもしれない。にゃんころみーこはわたしの手を引いて、商店街を歩いた。誰かに見られたらまずい状況であることは百も承知だったが、わたしは引かれるがままに歩を進めた。それは、はたから見て、犬の散歩のようでもあり、介護の現場のようでもあったと思う。わたしは冷静と呼べる心持ちではなかったものの、明らかにこれから起きるかもしれないことに期待していた。ついさきほどのイベント会場において、わたしが彼女に下した評価は、デザインについても機能性についても芳しいものではなかった。悪い噂がもたらすバイアスを除いたとしても、全体的に薄気味悪さを感じていたのは事実だ。個人的に付き合いを持つ気には到底なれないし、性交渉をするなどもってのほかだとわたしは思っていたのだ。
 だが、結局わたしは彼女の身体に覆い被さり、獣のような吐息を漏らしながら、己の欲望を彼女の内部に押し込んだ。部屋の空気は重く、わたしの汗と彼女の体液が混ざり合い、まるで異国の市場に迷い込んだかのような錯覚を覚えた。にゃんころみーこの肌は、その手の在り方とは裏腹に、熱く湿り気を帯びていた。彼女の喘ぎ声は、まるでわたしを嘲るような高音で、しかしそのリズムはわたしの動きに合わせて完璧に同期していた。初めはレゲエのようだったが、終いにはガバに近いテンポとなったのだ。わたしはなるべくこの淫靡な舞踏に集中することで、この行為が自分をどこへ導くのかについての思考を努めて放棄した。それは罪悪感を呼び起こすだろうことだとわかっていた。
 わたしは妻と娘を持つ男だ。十四年間、わたしは倫理に忠実であり続けていた。心の中では、幾度となく他の女を想像し、夜の闇に紛れて自らを慰めたことはある。時折、自分の手がこの世のどんな膣をも超えてしまったという錯覚を覚えたことさえもある。自慰は誰にも害を及ぼさない、ただの幻想なのだ。だが、にゃんころみーこは違った。彼女は実在し、わたしの手や腕、肉棒を握り、わたしの欲望を現実のものとしているのだ。彼女がわたしを誘ったのだ。彼女が商店街でわたしの手を握り、わたしをこの薄汚いラブホテルの一室に引きずり込んだのだ。我々はそこに至るまで一言も発しなかった。わたしはあの魔術的な無言の被害者に違いないのだ。彼女の柔らかい手、彼女の無垢な瞳、彼女の計算された誘惑に抗えた未来など、あるわけがないのだ。
 「わたしは悪くない」と、わたしは心の中で呟く。にゃんころみーこの腰が揺れるたびに、わたしの理性はさらに薄れ、自己正当化の言葉が頭の中で渦を巻く。彼女はわたしを必要としたのだ。彼女の瞳には、わたしを求める光があった。彼女はわたしを選んだのだ。妻が、娘が、わたしの日常が、どれほど退屈で、どれほど抑圧的であったかを、にゃんころみーこは理解していたに違いない。彼女はわたしを解放するために現れたのだ。この行為は、わたしの人生における必然だったのだ。わたしは、ただ運命に従っただけなのだ。
「キィィィィィィィィィィ」
 にゃんころみーこが突然、身体を反らせ、鋭い声を上げた。
 その瞬間、わたしは自分の限界を感じ、熱い衝動が全身を駆け巡った。行為は終わり、わたしは彼女の横に崩れ落ちた。部屋は静寂に包まれ、ただわたしの荒い息と、彼女の微かな吐息だけが響き合う。彼女はわたしを見ず、ただ天井を見つめていた。その瞳から、わたしは何も読み取れなかった。満足も、軽蔑も、後悔も、何も。
 わたしは立ち上がり、鏡に映る自分を見た。汗と体液にまみれた身体は、まるで別人のようだった。だが、わたしは自分に言い聞かせる。これはわたしのせいではない。にゃんころみーこが、彼女がすべてを仕組んだのだ。わたしはただ、彼女の誘惑に抗えなかっただけだ。妻と娘には、このことは知られなくていい。知られる必要はない。わたしは、ただ一時の迷いを犯しただけなのだから。そう、気の迷いなのだ。
「デカダンス」
 悪夢から目覚めた後のわたしは、じわじわと現実を受け入れた。とんでもなく厄介なことになっているのは間違いなかった。これがバレたら、作家生命をはじめ、ほかにも幾つかの事柄が終焉を迎えるだろう。今のうちに今後どう行動するか考えておかなければ。
 もしにゃんころみーこがどこかで今宵の出来事をペラペラ喋ったならば、とりあえずは「やっていない」と言いはろう。それしかない。
「最近、わたしの良くない噂を流している人がいます。わたしはそんなことをやっていません」
 わたしは脳内に出てきた文言をぶつぶつと口に出してみた。
 もし、彼女がSNSを使って暴露してきた場合はどうだろう。一切反応せずに無視すればいい。警察に相談するという手もある。あくまで自分のアカウントは超然とあるべきだ。
「本日も楽しい日でございました! 最高の怪談仲間に囲まれて、ちょっと飲みすぎちゃったかな?」
 こうしてわたしは段々と気が大きくなっていき、その傲慢さは「クソが、クソが、クソが」と連呼しながら、にゃんころみーこのカバンを漁り、財布から一万円を抜くほどの大胆さにまで成長した。迷惑料を頂戴してしかるべき事態なのだ。
「おれは何もやっていない! やっていない! やっていない!」
 これは絶叫に近いほどの大声だったが、にゃんころみーこからは微塵も起きる気配を感じられなかった。
「このブス、死んでるのか?」
 そう言い放ったのち、わたしはそそくさと服を着てホテルを出た。
 元々予約を取っていたホテルの浴場にはサウナが併設されている。そうだ、サウナでこの身体を清めよう。全部、汗にして流してしまえば元通りだ。
「おれは良い人だ。おれは人気者だ。おれは人気を得て金にしたいんだ。不倫も浮気もハラスメントもしない良い人なんだ。信じろ。みんな、おれを信じろ。おれを信じろ」
 鼻先にはまだナンプラーの臭いがあった。
 わたしはホテルに到着するまでの道すがら、二度、吐いたのだった。

(終わり)

高田公太
青森県弘前市在住の作家、詩人、エッセイスト。
最新刊「呪念魂」(竹書房刊)の好評発売中。
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