大分怪談

各都道府県や地域名をタイトルに入れて、該当地域の書店で重点的に販売展開されローカルな需要に応えている「ご当地怪談本」は、ここ最近の竹書房から刊行される怪談書籍の中でも比重が高く、もはや怪談読者にとっては説明不要だろう。

ヴァナキュラー怪談と称された『実話拾遺 うつせみ怪談』に続く丸太町小川氏の二冊目となる単著『大分怪談』は、題名そのままに大分県内の怪談が集められた一冊。

大分県在住の丸太町氏に白羽の矢が立つのは当然ながら、大分県内各地域で取材した怪談と、郷土資料や民話に残る怪談話を体験談に関連するものとして詳細に紹介するアプローチは『実話拾遺 うつせみ怪談』の時点で既に実践されており、こちらもほぼ「大分怪談」と呼んで差し支えない一冊なので、この機会に是非とも『うつせみ怪談』と『大分怪談』の両方に目を通して頂きたいところ。

『大分怪談』ではそのアプローチを更に突き詰め、怪談の舞台となった土地に纏わる歴史・民話といった伝承を豊潤に提示しつつ、大分で暮らす・大分を訪れる人々が怖がるのに役立つ情報以上のもの、怪談文芸の表現に果敢に挑み「ご当地怪談」として括られる怪談本のあり方を見事にアップデートした。

馴染みのない土地を扱った怪談本には興味がない読者にも是非読んで欲しい一冊で、その点について(筆者自身もご当地怪談本の執筆に参加した経験から)色々と述べたい。

ご当地怪談はまず、体験談の現場となった「場所」が肝心である。

ひとつの県に絞っても、東西南北の各地域を満遍なく紹介する必要があり、場所のディティールを掘り下げるとなると、足で赴く取材と郷土資料のリサーチに時間を割かれ、作家にとっては非常に骨が折れる作業である。

読者(と想定される層)の期待するものも、そういった取材や調査の成果が詰まったガイドブック的な魅力であろうし、「あぁ、ここの話ね」と土地勘のある読者が(コンプライアンス上、人物や場所等詳細情報を明記せずとも)ほくそ笑むような塩梅が望ましい。

ひとことで言うなら、ご当地怪談は場所を中心とした「情報」に価値が置かれており、場所に紐つく怪異体験が取材できて書籍に掲載できれば、その目的は達成されると言える。

逆に言えば、それらの怪談を描写するときに体験者の感情や個人的な事情といった主観性は優先されず、また作家の文体等の持ち味や個性を存分に発揮することよりも「この場所でこんな体験があった」情報をより多く紹介することが第一で、怪談の取材力・蒐集力が何より求められる。

したがって、ご当地怪談の執筆者は必然的に取材のツテ・土地勘がありフットワークが軽い在住者や出身者が手掛けることになるので、執筆を担う作家はその土地への郷土愛や帰属意識といった作家自身のアイデンティティもまた問われることになるのだが、そういったご当地怪談に求められる要素と需要は、ともすればその土地の内側にのみ向けられるもの——そこに暮らし風土を愛している者、家系や地域の帰属意識によるつながりを有する者にとっての身近な「怖い話」となり、ご当地怪談の該当地域の縄張りの外にいる者にとっては、個人の特異な体験と土地勘の共感しにくさという点では他人事ともなり得る。

場所性を打ち出している以上、恐怖はそこから近いか遠いかの物理的距離に比例するのも、ご当地怪談の一側面である。

そこで『大分怪談』なのだが、序盤に収録された「かみのびんづめ」の冒頭一節を読んで、今までに述べた(あくまで筆者の考えるところの)「ご当地怪談観」なるものが一瞬にして払拭された。

 藪を掻き分け、岩や根に足を取られながら藻掻くように進む。やたらと蜘蛛の巣が多く、二、三歩に一度は顔を拭わねばならないからかなわない。

 このあたりのはずなんだけど……

「かみのびんづめ」

「かみのびんづめ」はその題名の通り、髪の毛が詰まった不気味な瓶を発見した体験談を元に構成された話なのだが、冒頭ではその瓶を発見した大輔さんという体験者の一人称の視点、鬱蒼とした藪を進む彼の「体感」が伝わる描写から始まり、その場所の雰囲気や臨場感をもよおす文章となっている。

後半は体験談を取材した丸太町氏が実際の現場で瓶を探すくだりが描かれているのだが、現場に赴き怪異を追体験する「行ってみた」オステンション行為が醸し出す、ある種の怖いもの見たさへの露悪的な臨場感というものを感じさせない、まるで作家自身のエッセイを読んでいるような柔らかな筆捌きなのだ。

このくだりの行為は追体験ではあるのだが、体験者たる大輔さんに追随し同じ恐怖の体感と再現を期待するのではなく、大輔さんと丸太町氏、それぞれの人間がそれぞれに体験した出来事として等しく扱っている、と言えばいいのだろうか。

それぞれの人間が、それぞれに体験した出来事を綴る、すなわち「私」と「あなた」、「私」と「誰か」という他者の一人ひとりのナラティブに向き合う——という姿勢が、『大分怪談』に通底するコンセプトだと筆者は考える。

どの体験談も体験者の「体感」を得られる描写がなされていて、特に「チキチキチ」「こんなところに」といった音に纏わる怪談は聴覚を研ぎ澄ませる体験者の緊迫感がある。

怪談、特にご当地怪談で削ぎ落とされがちな体験者の挙動や心情の微細な表現を積み重ねていくことで、怪談の場所が持つアトモスフィアを感じさせるのだ。

また、「コトリ」「妻を塗り固める」のような、伝承されてきた民話を実話怪談のスタイルで翻案する試みも同じで、彼らを「誰かの体験した出来事」という怪談の形式で文章が立ち上がるとき、現代の怪談との関連性や土地の歴史的背景といった情報以上のものとして提示される。

ある人の体験した出来事として書き直されることで伝承記録に血が通い、会話が肉声を伴う記憶として再現される。

怪談という、共有が不可能に近い経験を「自分ごと」として認識するのは難しい。

いっぽうで「自分にこれが起きたら厭だなぁ」という、共感したくない事への共感を喚起させるために作家は筆を唸らせるのが怪談文芸の技巧ではあるが、これは体験者への感情移入や共感を促すというよりも、あくまで出来事を俯瞰した目線の読者としての距離を隔てているからこそ、どんなに怖くて厭な話でも愉しめる、という怪談と我々の「遠さ」を効果的に用いている。

それゆえに、伝承された民話という、心理的・時間的距離を隔てた怪談が、時に恐れ悲しみ怒り喜ぶ「誰か」の話として書かれるときに、怪談という経験の分かち合い難さが、その途方もない距離が、少しでも縮まっていくのではないだろうか。

そして、「誰か」に起きた出来事と作家が自覚することで、何を描き何を描くべきではないかというセンシティブな倫理に対して、おのずと取捨選択ができ「どう描くか」に挑めるのではないか。

もはや怪談作家は、怪談の「取材」と「紹介」だけではいけないと、本書をご当地怪談として読んだ筆者は背筋が伸びた。

怪談は再現不可能で、経験を共有できない。

しかしだからこそ、誰かの体験談たるナラティブは、我々から隔てられた距離を、時空と言ってもいいかもしれない膨大な距離を越え得るのではないか——と思った次第である。

卯ちり
2019年より実話怪談の執筆と語りの活動を開始。
最近はオープンマイクの怪談会や怪談に的を絞った読書会を不定期に開催、共著に『秋田怪談』『実話奇彩 怪談散華』(いずれも竹書房怪談文庫)等。
十人の怪談マエストロによるエッセイ・アンソロジー『怪談に至るまで vol.2』が好評発売中。

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