空洞 世田谷区桜上水 03.2025

『現像』は松尾祐樹氏が作・演出を手掛けるホラー演劇シリーズで、昨年9月に「現像 世田谷区桜上水09.2024」が上演され、今月は再演となる「​現像 世田谷区桜上水 03.2025」および、新作の「​空洞 世田谷区桜上水 03.2025」が上演中である。
本記事は、新作「​空洞 世田谷区桜上水 03.2025」3月9日の回(出演・南風盛もえ)を観劇したうえでの評となる。

本文中内容にふれている箇所がございますので、未鑑賞の方は是非鑑賞後にお読みください。

『現像』シリーズ2作品はいずれも民家を舞台にしたひとり芝居で、観客は会場の民家を訪れてリビングに敷かれた座布団に座りながら、俳優が演じる人物の家に招かれている、という体裁で観劇することになる。
前作「現像」は、現在隆盛しているホラーの様々な様式を演劇作品一本で実践した画期的な作品だった。
民家——築年数を重ねた庭付きの平屋でリフォームが施されていない昭和家屋の間取り、使い古された畳や壁紙、家具や生活用品が「誰かがここに住んでいる」そのままの密度でセッティングされている場所で、俳優はビデオカメラの撮影をしながら、話の経緯と怪談を語り、降霊儀式を行う。
演者が語る話、ビデオカメラ映像の不穏さ、何が出るかわからないお化け屋敷的空間、それらが演劇という総合芸術の力で統合されて、観客の目の前で恐怖を生み出す圧巻の作であった。

では今回の「空洞」はというと、会場は前作と同じ民家で、居間のテレビには隣室が映し出され映像が作品の一部を構成している点では共通しているものの、ひとり芝居という一人称の語りの尺度で、「家」と「人」との心身の距離感の近さを志向する作品であったように思う。
前作が「家」に対する番人共通の恐怖心に訴えかける作品であったのに対し、今作は家に纏わる居住者の暗い記憶を巡る、繊細に作られたサイコホラーだ。

南風盛もえ氏演じる「私」(注:今作は丸山港都氏とのダブルキャストで、おそらく演者の違いによって大きく印象は異なるだろう)は34歳で、既に他界した両親から実家を相続して暮らしている。
彼女は、家に「私の幽霊」が出るといい、観客にそれを目撃してもらうために招いたと説明する。
「私」は初めて幽霊に出会った幼い日の出来事を語り、幽霊が出るたびに記録した日記を読み上げながら過去を回想し、家族とのやりとりを再現する。

台所とシャワーから水が流れる生活音が空間の基底音となり、昔の家の様子、間取りや飼っていた犬や両親の話を聞いていると、「家」が俳優演ずる「私」と同等の存在、もうひとりの俳優として立ち上がってくる。
人間にとって、家は自身の延長、私たちが纏う最も外側の衣であり、記憶が蓄積された家は自身の外骨格となる。
「私」は始終、家の外の生活や交友関係について話すことなく、家の中で起きたことのみを執拗に語る。
その「私」語りは、「私」と「家」が分かち難いものであることを示すとともに、幽霊を切り口に無機物の「家」を語ることは、すなわち「私」自身の生々しい感情と内省を回避する態度でもある。

家で起きた最初の怪異は、存在しないはずの祖母の黒子を飲み込んでしまうという一風変わった体験なのだが、異物を飲み込んだことに端を発する幽霊との出会いは、同時に「私」と体内に取り込まれた得体の知れない存在との同居生活の始まりとなり、「私」は身体の内側から徐々に侵食されてゆく流れを生む。
続いて日記に記された日の出来事が、両親との会話を「私」が再現する形で順に語られるのだが、ここで雲行きが怪しくなってくる。
帰省した娘を相手にした父親はどこかよそよそしく、母親は「私」の意志を尊重せずに話を進めるさまが見て取れる。
「私」自身も、母親に対しては「一緒に暮らすのは無理」と自覚的で、両親との心理的距離が浮き彫りになる。
そして、このとき幽霊は「私の幽霊」として出現し、両親は幽霊を自分たちの娘だと思い込み、楽しそうに会話をする。
「私」は家に居場所がなく、おまけに自分の部屋は母親の手で幽霊対策と称して片づけられている。
両親は幽霊の存在を認めつつも除霊を試みることはないまま、病に倒れ亡くなっている。

実話怪談の蒐集と発表を行う身としては、体験者にとって最も恐ろしいのは果たして怪異と呼ぶべき幽霊や超常現象なのか? と疑問を抱くときがある。
特に、体験者自身の人生に影を落とす出来事、家族やパートナーの不幸、虐待や不和などは、怪談たる体験談の背景からうっすらと滲み出し、気づけば深刻な話に立ち会ってしまうことも往々にしてある。
体験者にとって克服できない傷が、怪異の形を取って襲来する、とでも言えばいいのだろうか。
この作品で「私」が語る幽霊の話も、幽霊以上に家族との不和を「私」は訴えかけているように思えてくる。

劇中では、「私」の感じる疎外感や苛立ちが徐々に募っているのを、南風盛もえ氏の演技によってひしひしと感じさせられる。
このとき、「私」に成りすまし娘のふりをする幽霊よりも、両親、とりわけ母親に対して向けられている「私」のやり場のない怒りの行方に注視してしまう。
両親に置いていかれ、幽霊と同居した「私」の感情の矛先はどこへ向かうのか?
いやな想像を抱いていると、怪異と苦悩の境目が曖昧になり、彼女の語りが、いったい誰に向けてのものなのかがわからなくなってきたときに、

それって情報じゃん!
って思ったんですよ
日記を見返してみたら
「足音が聞こえた」「シャワーが急にでた」「声が聞こえた」って
情報しか書いてなくて、
その時に私がどう怖かったとか一切なくて、

「空洞 世田谷区桜上水 03.2025」

と、「私」が執拗に語り続けてきた記憶と記録が敗北する瞬間が訪れる。
「私」は両親と幽霊への恐怖に正しく向き合えなかったことを悔いて自身の空虚さを自覚した時、幽霊は現れる。
しかし、幽霊の出現は同時に、身体に巣食っていた何かが溢れ出てきた、ということも示唆されていて、「私」の抑圧していた感情が爆発した瞬間でもある。
虫が果物に入り込んで実の中心を空っぽにしながら腹を満たすように、幽霊は「私」に侵食し勝利して終わるかと思いきや、「私」と幽霊は最後に邂逅する。
そして家——「私」——幽霊の入れ子構造の中で「私」が消えるとき、残されるのは脱皮した殻のごとき家だけだ。
家は「私」と幽霊にとっての媒介者で、同時に傍観者であったのかもしれない。
もしかしたら幽霊は家から去らずに留まるかもしれないが、住む人が不在では幽霊は作用しない。
幽霊は、ひとがそれを恐怖の対象としてみなすときに、はじめて名前と存在が与えられる。
幽霊は見る人によって形を変える——何かを恐れている人にとっては、幽霊はもっとも害をなしうる形で現れる。

しかし、この作品にはひとと幽霊の関係だけに終わらせない余地がある。
幽霊の弁によると、気に入ったひとではなく「家」を選んだのだという。
となると、この話は「私」と幽霊がそれぞれ家を語るものであったのか? ひょっとして、「私」よりも幽霊の方が「家」を愛していたのではないか?
そのような考えが浮かぶとき、家という空間それ自体の力が立ち上がってくる。
恐怖の理由を、ひとと幽霊のいずれかに託すことができない。
家もまた、住む人にとって形を変え、居心地の良し悪しは変化するものだ。
幽霊と同じように、ひとの内面を家は投射できる。

家は、怖い。

卯ちり
2019年より実話怪談の執筆と語りの活動を開始。
最近はオープンマイクの怪談会や怪談に的を絞った読書会を不定期に開催している。
共著に『秋田怪談』『実話奇彩 怪談散華』(いずれも竹書房怪談文庫)等。

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