怪談語りがたり 大赤見ノヴ 後編

シーンで活躍する怪談語りを深堀りするインタビュー企画「怪談語りがたり」。
引き続き、ゲストはナナフシギの大赤見ノヴさん。
今回はノヴさんの海外移住、吉田猛々さんと出会った頃のエピソードなどを紹介する。
(インタビュー・写真●怪談ガタリー編集部)

前編はこちら

大赤見ノヴ 1979年8月12日生まれ 大阪府住吉区出身

海外移住での進化

——高校時代にも数々の思い出深いエピソードがあったようですが、卒業後の進路はどのように考えていたのでしょうか?

「周りの友達が大学の受験勉強をしていたときも、僕は時間があったので映画を観たり、ゲームをしたりして過ごしていました。それには理由があって。父の仕事の都合で、高校を卒業してすぐマレーシアに行くことが決まっていたんです」

——マレーシア! 家族で海外移住ですか。

「そうです。僕は日本に残りたいと言ったんですが、父からは『お前を日本に残したら何するかわからへん』と言われたんです。そして『海外で生活することで、お前の人間的なレベルが飛躍的にアップするぞ』って。それを聞いて僕は『確かにそうやな』って思ったんです」

——新しいワクワクが生まれたわけですね。

「同時に『必死に勉強しなくていいんだ』とも思ったんですよ。もちろん、高校を卒業するために必要な最低限の勉強はしましたよ。そうして残された日本での時間を有意義に使おうと思って、映画を観まくったんです」

——どのような映画を観たのですか?

「例えば『グーニーズ』とか、『ネバーエンディングストーリー』とか、小さい頃に観て記憶の片隅にあった作品ですね。そういった映画を改めて観て、『映画ってめちゃくちゃ面白いじゃん』って思ったんですよ。それから好きな俳優の人生のことを詳しく調べるようになって、シルベスター・スタローンが大好きになりました」

——彼のどのようなところがノヴさんに刺さったのでしょうか。

「彼はまさにロッキー・バルボア(スタローンの代表作『ロッキー』シリーズの主人公)のような人生で、吃音症というハンデを抱えながら『ロッキー』を作って、人生の逆転を果たしたんです。めちゃくちゃかっこいいなって思いました。それからさらに映画にのめり込みました。どんどん映画の歴史を遡ったりして、クラシックな映画も見漁りましたね。リバー・フェニックスも好きでしたよ」

——そのような日々を経て高校を卒業されたと。

「はい。高校を卒業してすぐにマレーシアに移住しました。ただ父は『学校へ行け』とも言わなかったんです。『とにかく海外の空気に触れて、あとはお前がなんとかしろ』と」

——オープンワールドに放り出されたようなかたちですね……。

「そんな時期に不思議なことが起きたんです。僕はずっと小児喘息が治らなくて、当時は喘息の薬を1日12錠くらい飲んでいたんですよ。その薬がマレーシアで切れてしまった。『親父、どうしよう?』って相談すると、父が『じゃあ、試しに日本人じゃない医者に診てもらおうか』と言ったんです。そして連れていかれたのが中国人の町医者のところで、日本語がかろうじて話せる先生でした。その人が僕のことを診断したんですが、診察室で気功のようなことをされるんですよ。もう、わけがわからなくて。親父は後ろで笑っていました(笑)」

——診断結果はどうだったのですか?

「その町医者が僕の目を見て『オマエね、タブン治ってるよ』って言うんです。続けて『二ホンの医者ね、儲けるためにクスリどんどん出すから、ソレ飲んでると良くならないよ。オマエね、今日からゼンソク治ったって思い込んでみな』って。僕は『この人、何言ってるんだろう……。気持ちわるっ』って思ったんですけど、どうしても薬をくれない。『いいかオマエ、今日からだからな。この病院を出たら絶対に、自分はゼンソクだなんて思うなよ』そんなふうに言われて病院を後にしたんですけど、それ以来喘息の症状が出ていないんですよ」

——すごいお話ですね……お父様は、どうしてその人のところに連れていったのでしょうか?

「父に深い意図はなくて、誰のところでもよかったんだと思います。ただ『環境が変われば肉体が変わるし、体質が改善されるんじゃないか』っていう確信めいたものがあって、そのきっかけを与えたかったんじゃないでしょうか」

——なるほど。それ以降のマレーシアでの生活はどのようなものでしたか?

「喘息が治ったこともあって、もっと身体を鍛えようと思い立ったんですよ。その頃の僕はコンドミニアムに住んでいて、そこにはプールやジムが併設されていたんです。トレーニングを始めて8カ月後には、体脂肪率が5%まで落ちましたね。今は、その時に鍛えた筋肉の貯金で生きているような感じです(笑)。あれだけ身体が弱かったのに、マレーシア時代からは大きな病気もしていませんし」

——まさに、大きな転機となった時期だったのですね。

「もちろん海外でも心霊経験はしていて、それは現在にも繋がってきます。向こうでも時間はあったので、死ぬほど映画を観ていましたね。ただ、少しずつ海外での生活に面白味を感じなくなってしまったんですよ。結局父の仕事が落ち着いたタイミングで、日本に帰ることになりました。約8カ月の短いマレーシア生活でしたね」

お笑い芸人になる

——帰国後はどのような生活を送っていたのでしょうか。

「しばらくはフリーターをしていたのですが、基本的な生活スタイルは移住前と変わりませんでした。そんなある日のこと、帰宅した父が『仕事を辞めてきた』って言ったんです。理由を聞くと『厄年やから』って。『厄年のために金を貯めてた。だから俺は3年間何もしない』って言い始めたんですよ」

——お父様らしい発言というか……なんというか……。

「その頃も、大学の講義を終えた友人たちがウチに集まっていて。そこに父が交ざって、みんなで麻雀をしたりしていたんです。そんな生活が1年くらい続いたある日、前の相方から声をかけられてお笑いの世界に入りました」

——地元のお友達からお笑いに誘われたわけですね。

「そうです。『暇やったらお笑いやってみぃひんか?』って言われて。それからインディーズ活動が始まったわけですが、右も左もわからないんですよ。だから知り合いのツテを使ってライブに出まくっていました。それで、ある程度の形になったところで渡辺プロダクション(ナベプロ)のオーディションを受けることになって、たまたま受かったんですよ」

——ノヴさんはツッコミだったのですか?

「僕はずっとツッコミです。若い頃からダウンタウンの浜田雅功さんに憧れていましたからね」

——当時のナベプロはどのようにライブをやっていたのでしょうか?

「当時のナベプロの体制っていうのが、過去にナベプロのライブに出ている人も新人もごちゃ混ぜで、上位15組がライブに出れるっていうサバイバルだったんですよ。僕らはオーディションに受かったものの、上位には入れずに手伝いばかりの生活だったんです。このままじゃダメだと思ったとき、たまたま声をかけてくれたのが、渋谷のセンター街に劇場を持っている小さな事務所だったんです。そこに吉田猛々さんがいたんです」

——それが猛々さんとの最初の出会いだったわけですね。

「はい。僕が22歳の頃だったと思います。もちろん、当時は猛々さんも別のコンビで活動していました」

——その頃の猛々さんはどのような方でしたか?

「猛々さんは若いときも今もまったく変わりませんね。ある日、喫煙所でタバコを吸っていたら猛々さんと一緒になったんです。そのとき猛々さんが『ノヴってゲームが好きなんだよね。今は何やってるの?』って聞かれたから『信長の野望です』って答えたら、猛々さんがめちゃくちゃ食いついてきたんですよ」

——戦国時代トークで盛り上がったのですね。

「すると猛々さんが、なんとなくピンときたのか『ノヴってプロレス好き?』って聞いてきたんでが、その話題でも盛り上がって(笑)。今度は僕が『猛々さん、妖怪好きですか?』って聞いたら、やっぱり猛々さんも妖怪が好きで。共通項がものすごく多かったんです」

切磋琢磨

「僕のほうは『30歳までにコンビでテレビ番組に出れなければキツいな』って考えていたんですよ。そんな時期に『エンタの神様』などのネタ番組がスタートして、『爆笑レッドカーペット』に出れることになったんですが、思うところがあって」

——どんなことでしょうか。

「『僕が生きていく道って、この先も枠が開かないだろうな』ってことです。偉そうにツッコミする人って、テレビでは数人しか必要じゃない。かといって、イジられるポジションで自分は生きていけるだろうか。いや、無理だ。そう思うようになって、また深く考えたんです。小さい頃からそうしてきたように。最終的に『今の状態でツッコミとしてネタ番組に出たとしても、そこで終わるな』って思ったんです。じゃあどうするか。しゃべりの技術、みんなをまとめる力、空気を読む力、周りを見る力のパラメータを上げておけば、辞めなくていいんだろうなって思ったんです」

——なるほど。

「そう決めてから、5歳ぐらい上の人たちがMCをしている中で『MCをやらせてください』ってお願いして回りました。めっちゃスベるんですけど、めちゃくちゃ場数を踏ませてもらって。色んなことを学んで、それが今に活きています」

——その状態をどう打開したのでしょうか。

「35歳の時に太田プロに移籍して、ゼロからやり直すことにしたんです。今まで築いてきた経験値や人脈でどうにかなると思っていたのですが、井の中の蛙でした。太田プロには若手もたくさんいて、6軍からのスタートでしたよ。『これはヤバい』と痛感して漫才に力を入れることに決めて、しばらく怪談を辞めました」

——当時は、どのような場で怪談を語っていたのですか?

「『人志松本のゾッとする話』をはじめとした怖い話を扱う番組に出演してはいたのですが、当時は『お笑い芸人が死にかけたり、怖い体験をしてるのってどうやねん』みたいな空気感が強かったんですよ。お笑い芸人は島田秀平さんくらいしかいませんでしたし、『お前の霊感って嘘でしょ』って言われるのも嫌だったんです。それで僕が『俺は漫才で行くんや!』ってなったのに、ボタンの掛け違いが起きてコンビを解散することになりました。僕個人としても、結婚をして子供を授かった大切な時期だったんですけどね……。その話を聞いた先輩や仲間のほとんどから『もう潮時じゃないか』と言われた中で唯一、バイきんぐの西村瑞樹さんだけが背中を押してくれたんです。『お前のしゃべりは上手いし、チャンスちゃうか?』って。妻からも『ここで辞めても悔しいでしょ。絶対にチャンスは来るから、続けたら?』と言われて。そこで『得意な怪談をもう一度やろう。そして、怪談で一人でテレビに出れるとしたらどんな番組だろう?』と考えを巡らせたんです。そうして行き着いたのが『やりすぎ都市伝説』でした」

——そこからどのようなアクションを起こしたのでしょうか。

「すぐマネージャーに電話をして、関係者に連絡を取って……。番組のオーディションを受けられることになったんです。めちゃくちゃ逆境でしたけど、やっぱり自分から動けばチャンスを得ることができた。小さい頃から味わってきたワクワク感が甦ってきたんです。『この状況、めちゃくちゃおもろいやん』って」

——「やりすぎ都市伝説」のオーディションはどうでしたか?

「実を言うと、僕が持っていった怪談は番組のディレクターさんに刺さらなかったんですよ。でも『君は話が上手いから、何か他にない?』って言われて、1分間で脳みそをフル回転させたんです。それで出てきたのが、ゲームに関する知識でした。『任天堂の歴史を語れる?』と聞かれたので披露したら、合格をもらえたんです」

——幼少期からの知識の積み重ねがここで役立ったわけですね。

「そうなんです。『やりすぎ都市伝説』に出れることになり、事務所から一人での活動を許されて、猛々さんを引き入れることになるんです」

——と、ここでまさかのタイムアップ!
今回はナナフシギエピソード0まででしたが、それでもすごいボリュームでした。
続きはまた後日、次回はナナフシギ結成、YouTube活動に関するエピソードなどお届けしたい。

リンク
ナナフシギ【公式】(YouTubeチャンネル)
清浄と誤怪展―。

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