シーンで活躍する怪談語りを深堀りするインタビュー企画「怪談語りがたり」。
その記念すべき1回目は、怪談家・ぁみさんをゲストに迎えた。
常に最前線を走り続ける彼の生い立ち、大切な記憶と思い出、ターニングポイントとは何だったのだろうか?
(インタビュー・写真●怪談ガタリー編集部)
怪談との出会い
——ぁみさん、本日はよろしくお願いします。改めてインタビューをさせていただくわけですが、もう何度も、ひょっとしたら何十回と同じような質問をされているかもしれませんね(笑)。
「いやいや、いいんです。何でも聞いてください。答え慣れてますから(笑)」
——まず、どのような幼少期を過ごされましたか?
「僕は1982年生まれで、山口県宇部市で育ちました。社会人野球をやっていた父の影響で、幼少期からコテコテの野球少年でしたね。さらに叔父がプロ野球選手だったので、叔父が所属しているチームを応援していました(笑)」
——まさに野球一色だったと。そんな日々の中で、最初に怖い話に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?
「小学校低学年のときに読んだマンガですね。夏になると、少年月刊誌が“怖い話特集”の別冊を出すんですよ。その内容が面白くてハマってしまいました」
——そのマンガ本には、どんな話が載っていたのでしょうか?
「例えば、夜更かししていたら家の前の道路にお婆ちゃんが立っていて、それが見るたびに近付いてくる。そんな話です」
——少年誌ながら怖いですね(笑)。
「オチの前に“この先を読みますか、どうしますか?”って書かれているんです。当然読んじゃいますよね(笑)。結局お婆ちゃんが目の前まで来てしまうんですけど、その続きがあって。“この話を読んでしまったあなたの元にも、このお婆ちゃんは現れます。それを回避するためには、お母さんやお婆ちゃんの手伝いをしてください”っていう終わり方でした」
——ある意味、教育的な着地だったわけですね。
「これが怪談との出会いです。怪談って素晴らしいと、心を動かされました」
——他にも怪談に興味を持つエピソードはありましたか?
「小学校高学年のとき、地域の行事でキャンプ会があったんです。僕の故郷は緑が豊かな場所で、森に囲まれた湖のほとりでテントを張るわけですよ。夜になると、奥の方のテントから悲鳴が聞こえてきて、次に手前のテントから悲鳴が聞こえてきた。何だろうと思っていると、僕が寝ていたテントに友達のお父さんが入ってきたんです。そして、怖い話をした」
——なるほど。
「そして怖い話を聞いた子供たちが『キャーッ』て悲鳴を上げると、友達のお父さんはニコッと笑って他のテントに向かっていったんです。僕には、キャンプの夜を怖い話で盛り上げるヒーローに見えましたね」
——そういったことにも影響を受けたわけですね。
「その頃には、図書室で怖い本を読み漁っていました。大抵の原作は稲川淳二さんなんです。それから稲川さんのことを調べて、カセットテープで怪談を聴きまくっていました。本当に楽しかったです」
——中学生、高校生時代も野球と怪談漬けだったのでしょうか?
「ずっと野球は続けていました。怪談は趣味として親しんでいて、稲川さんの怪談を覚えて友達に話していました。お泊り会なんかで率先して披露していたんです。好評でしたよ(笑)」
本格的な怪談語りへ
——最初は稲川さんの怪談を話していたとのことですが、ぁみさん自身の怪談を初めて話したのはいつ頃だったのでしょうか?
「2005年に芸能デビューをして、その頃から怪談を披露していました。夏になると、事務所(吉本興業)の催しや先輩のイベントなどで怖い話をする企画があって。そのときは自分の体験談を話しましたね」
——まずは事務所の企画がスタートだったと。
「それから2010年に、日テレさんのとあるゴールデン番組の企画があったんです。100人がオーディションを受けて、上位20人が収録に行けて、投票で3人しかオンエアされないっていう。その企画が3回あったんですが、僕だけ怪談を語って3回ともオンエアされました。それを観た方々が体験談をくださるようになったんです」
——怪談がどんどん集まるようになったわけですね。
「最初は地元の友達が連絡をくれるようになって、やがて芸能関係の知人も『これ話してよ』って怖い体験談をくれて。あと、テレビ番組で僕を扱ってくれたときのセールスポイントが『怪談が上手い人』だったんですよ。『だったら怖い話をぁみに喋らせたいよね』っていうことになって、メールフォームを設置してくれて、連絡をくれた一般の方から怪談を取材できるようになったんです」
——ちなみに、最初の怖い体験談はどんなものだったんですか?
「高校を卒業してから福祉の専門学校に通っていたんですが、クラスメイトの女の子が何も知らずに心霊スポットに行ってしまい、そこで心霊写真が撮れたんです。自分の横に顔が写ってるっていう。その数日後の飲み会でクラスのみんなで写真を撮ったら、女の子の写真に写っていた顔が僕の膝のところに写ったんです。それから色んな怪現象に悩まされました」
——かない濃ゆい体験ですね……。
「それから目の前で除霊というものを初めてしてもらったとき、勝手に車のトランクが開いて、白いモヤが出ていくのを見たんです。こういうことって本当にあるんだなって思いました」
お笑いと怪談
——かたや、お笑いに興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?
「僕はお笑いの賞レースが本格的なブームになる前に興味を持ったので、怪談に舵を切ることができたと感じています。僕の中で『芸人=漫才・コント』っていうイメージはないんですよ」
——そのイメージは、ぁみさんが観てきたものが関係している?
「そうですね。猿岩石さんがヒッチハイクをしていたり、とんねるずさんがミュージックビデオを完コピしていたりとか……。そういうものを観て育ったので、芸能界に入る時点で『本格的に怪談を話すヤツがいてもいいんじゃないか』と思っていました。お笑いが好きというより芸人が好き、という感じかなぁ」
——なるほど、僕ら(怪談ガタリー編集部)も同世代なのでその感じすごくよくわかります。
「芸人って、演者もやって脚本家もやって演出家もやって他の誰かを光らせたり場を盛り上げたり、それは凄いとずっと思っています。場を明るくする能力も試されますしね。そんなことをバラエティー番組を観て思っていました」
——吉本興業さんを選んだのは?
「地元の学園祭で品川庄司さんがライブをしたときに、会場が物凄くウケててかっこよかったんです。それを見て、21歳のときに吉本の門を叩きました」
——実際TVなどで拝見してましたが、当時お笑いのネタも評価高かったと聞いた事あります。
「そうですね。ありがたくそれなりには評価されていたんです。若手の頃からランキング形式のライブに出て、毎月のように戦わされていました。そんな中で一応、一番上のランクのライブに出てて、当時戦っていた相手が現在の賞レースのチャンピオンだったりファイナリストだったりするので、今でも僕がバラエティー番組に出ると信頼して振ってくれます。僕が怪談に舵を切っていても、能力を認めて理解してくださっていたりするんですよね。若手の頃にお笑いのネタをしっかりやって戦い続けていたからこそ、そういった信頼を勝ち取ることができたのだと思いますね」
——お笑いの同期というと?
「トレンディエンジェル、はんにゃ、オリエンタルラジオ、フルーツポンチ、といったところですね」
——昨年(2023年)11月の「渋谷怪談夜会 10周年公演」in Zepp DiverCityでは、コンビの”ありがとう”として漫才も披露されてましたね。会場で拝見いたしましたが本当最高でした。
「ありがとうございます。実は、お笑いもわりと上手なんです(笑)」
——ぁみさんの怪談は、怖さと笑いの緩急がしっかりしていますよね。
「怖いだけだと肩肘張って疲れちゃいますから。時間いっぱい飽きずに楽しんでもらいたいですしね」
——ここまでの話で、怪談家として活動を始めることの「ターニングポイント」ってどこにあったと思いますか?
「『怪談語りをやりたいな』とはずっと思っていたのですが、その時期に若手芸人としてライバルたちと戦っていく中で、信念や好きなことをやり抜いて活躍していった姿を見ていたからこそ、『好きなことをやりたいな』と気付くことができたんだと思います。そこからゴールデン番組の話があったりして、『好き』から『向いているかしれない』にシフトチェンジができた。お笑いは周りがみんな上手かったのですが、こと怪談に関しては他の人より愛情を持ってたからこそ、他の人より上手に話せていたのかもしれません。そういったことがターニングポイントだったかもしれませんね」
そしてぁみさんは2014年、渋谷怪談夜会をスタートする。
次回はそのあたりから話を聞いていきたい。