木製の丸テーブルを挟んで、その若者はわたしと対峙して座っていた。
「先生……怪談ってものはねえ、あんたみたいにぬるい、お涙頂戴の話じゃあないんすよお」
彼は自分の名を「キリト」と名乗っていた。それが本名なのか芸名なのかはわからないが、自らを怪談師と呼んでいるからには、両方の線があり得る。
「やっぱねえ、がつんとくる怪談しか、怪談とは呼べないんすよねえ」
キリトからのメッセージがわたしのSNSアカウントに届いたのは二週間前のことだった。
ホンモノってやつを教えてやりますよ。
厭な話、聴きたくないっすか?
彼のメッセージに興味を覚えたわたしは「会いたし」の旨を返し、この喫茶店での面会に至ったのだ。現れたキリトのレザージャケットとジーンズはどちらも黒く、ジャケットの下にあるシャツはさまざまな箇所が破けていて、彼が動くとふとした拍子に裂け目から右の乳首が覗く。
「はっきり言うと、厭な怪談を語る怪談師の頂点にいるのがおれっすね。今からそれを証明するんで、まあ聴いちょってくださんな」
わたしは彼が発したこの「聴いちょってくださんな」というフレーズに、強いひっかかりを覚えた。なぜならそのフレーズにはユーモラスな響きが一切感じられず、ごくごく自然に彼の口から出ているようだったからだ。出生地である秋田県から新幹線で青森まで来たというキリトが、「聴いちょってくださんな」とは。彼は普段からそんな言葉遣いをしているのだろうか。それとも、プロの怪談作家を目の前にして浮かれてしまったため、珍妙になってしまっているのだろうか。もしわたし程度に出会って浮き足立つようなら、あまりにもレベルが低すぎるのではないだろうか。
強い共感性羞恥を隠すため、わたしはカップを持ち口に寄せ、ずずっとブレンドコーヒーを啜った。顔をやや下に向けることができるこの動きで、表情を隠せるだろうと思ったのだ。
「先生、何をニヤニヤしてるんすか?」
「え? いや。キリトくんの話を聴けるのが楽しみで」
キリトは思ったよりも目ざとい男だった。わたしは努めて真剣な表情を作り、顔をあげた。
そしてわたしとキリトの目が合うと、怪談語りが始まった。
「おれの先輩でアナルセックスが趣味のやつがいるんです。名前は仮でAとしますね。ひひひひ。Aは五十二歳で、離婚歴が八回。離婚の原因は八回ともアナルセックスの強要です。普段、Aは温厚なんですけど、男と女の関係になるとどうも人が変わるみたいで。あと、Aは大のギャンブル好きで借金が八百万くらいあるらしいから、その辺も離婚の原因でしょうね。Aは決してルックスが良いわけでもないんですよ。ひひひひひ。でも、八回離婚できているってことは、八回結婚できているってことですからね。モテる原因が何かあるのかなって誰もが思うでしょうが、これも違うんです。実はAは催眠術が得意で、女を催眠状態にして結婚してるんです。でも、Aの催眠効果はいつも、アナルセックスの強要で切れちゃうんですね。だから結末は離婚ばかり」
わたしは「催眠が切れるかケツ穴が切れるかの瀬戸際ですね」「アナルだけにケツ末」などの相槌を打つのをぐっと堪えた。
「Aはとある新興宗教にも入ってまして。教祖のおっさんを唯一神と崇めるようなカルト教団です。結婚した女性たちともそこで知り合ってたそうで。ひひひひひ」
キリトの語りは随所で「ひひひ」という笑い声が挟み込まれるのが特徴的だ。それはいかにも、こんなやばい話をしているぼくちゃんって凄いでしょう、とでも言いたげな笑い声だった。
「それでね、そんなAが最近、温泉にハマっているっていうんです……」
この温泉のくだりからキリトの二時間に及ぶ独演会まがいが始まった。
かいつまんで話すと、「Aが誰かに呪われて、肥溜めを温泉だと思って浸かっていた」という、たったそれだけの話を彼は二時間かけて語ったのだ。彼の語りに出てくる登場人物が八人を超えたくらいから、わたしはこの場にいることに苦痛を感じていた。Aから始まった仮名はMにまで達した。
彼は思い出したように「堕ろす」「恨み」「殺してやる」「病で」「音信不通」「離散」「千切れた肉片」「冷たくなっていた」などの言葉を使っていたが、話の筋はめちゃくちゃで、到底リアリティの感じられないものだった。
「でねえ。その占い師がおれに言ったんです。『あんたも憑いてるよ』ってね。ひひひひひ」
わたしは彼の語りがようやく終わったことに安堵するあまり、「それはサッパリするね」と頓珍漢な感想を漏らしたのち即座に自分の失敗を悟ったが、「ええ。サッパリ」と応じたキリトのやり切った表情から、別段問題はなさそうだと判断した。
「ま、こんなもんです」
「むうん。はい。ありがとうございます。でもさ、キリトくん」
「はい」
「最初のアナルセックスのくだり、要るかな?」
「はい?」
「いや、何だかアナルが怪異そのものに絡んできてないように思えたけど」
「あんた! バカだなあ! 先生よ! そんなだから売れないんだよ!」
キリトは声を荒らげてわたしに反論した。
「厭系怪談ってのは、こういう生理的に人が気持ち悪がりそうな言葉をたくさん入れるのがコツなんだよ! あんた、本当にダメだなあ! わかってないよ!」
こう言われ、次に激昂したのはわたしの方だった。
「なんだ! アナルセックスが気持ち悪いって! アナルセックスは気持ち良いだろ! わかってないのはお前の方だ! ぶち殺すぞ! おれは帰る! 勝手にやってろ!」
わたしが席を立つと、キリトは「え、え」と情けない声を漏らし、見るからに動揺したようだった。しかしわたしはキリトに情けをかけず、毅然とした態度でそのまま店を出た。コーヒー代はキリト持ちで然るべきだなのだ。
とどのつまり、目の前にいる人間がアナルセックス愛好家であるかもしれないと、キリトは想像するべきだったのである。想像力を持たず、言葉を軽んじて、恐ろしく低いレベルで嘘を吐き散らかす自称怪談師の相手に時間を割いてしまった己を恥じるよりほかない。
こんな輩が怪談師を名乗って活動したとて、誰が喜ぶものか。
と思っていたが、数ヶ月も経つとキリトは恐ろしく売れっ子になっていた。
テレビやラジオで引っ張りだことなり、YouTubeチャンネルも二十万登録者数を目前となっていた。そしてわたしはといえば目下携帯代が払えず、金の無心をすべく友人にメッセージを送っている。キリトと仲良くすべきだった。そうすれば、キリトから金を借りれたかもしれないのに。
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わたしは検索窓にそう打ち込みながら、慟哭する始末である。