2024/08/29(木)発売となった『怪の帖 美喰礼賛』。
著者である宿屋ヒルベルトが、「食」に纏わる怪異と不気味な体験を丹念に取材して纏めた怪談集である。
今回その出版を記念して、本書には惜しくも収録されなかった一編を、怪談ガタリー特別読み切り掲載する。
お口に合いましたら是非、酒、肉、魚、主食、甘味、どれも後味最恐の食に纏わる奇聞奇譚『怪の帖 美喰礼賛』で、恐怖のフルコースを召し上がって欲しい。
「ピザがない!」
笠井さんが学生時代に独り暮らししていたマンションは大学の正門のすぐ前にあり、サークルの仲間たちの溜まり場になっていたという。
特に毎週火曜日は、近所にあったローカルチェーンのデリバリーピザ店が半額キャンペーンをやっているので、ピザを取ってみんなで酒を飲みながら、その手のものに詳しい友人が持ち込んだボードゲームに興じるのが半ばルーティン化していたそうだ。
その晩もお決まりの仲間五人で、誰かが気まぐれに持ってきたC級ホラー映画のDVDを流しながら注文したピザが来るのを待っていた。定番のマルゲリータに、マヨネーズがこってり乗った照り焼きチキン。何を頼むか決める時に、メンバーで一番の太っちょが「どうせ半額なんだから二枚取ったって良いじゃないか」と高らかに宣言するのも毎度の様式美となっていた。
ドアチャイムが鳴って、笠井さんが受け取りに出る。顔馴染みになっていた配達のお姉さんに、三和土に散らかる靴を見られ「今日も相変わらず女っ気ないっすね」と笑われた。
ホカホカの紙箱を重ねて部屋に戻る。
テーブルに並べていざ御開帳——となって笠井さんたちは揃って目を丸くした。
ピザが欠けていたというのである。
八つ切りにされたマルゲリータピザが、左上から三ピース分取り去らわれて「65%を示す円グラフ」のようになっていた。
照り焼きチキンの方に至っては、箱は空っぽだった。そんな馬鹿な。笠井さんは困惑した。お姉さんから受け取った時は、どちらの箱もちゃんと重みを感じたのに。
「……えっ、これどういうこと?」
「入れ忘れ?」
友人たちも怪訝そうに顔を見合わせる。
「店員さんがつまみ食いしちゃったのかな?」
「あー、賄いと間違ったとか?」
「ちょっと問い合わせてみなよ」
促され、笠井さんはスマートフォンを取り出す。
「お前が玄関先で我慢できなくて食っちゃったんじゃないの? 白状するなら今の内だぞ」
店に電話をかける背中に、口の悪いひとりがそう言って笑う。
忙しい時間帯らしく、ずいぶん待たされてやっと電話が通じた。
電話口は物腰の柔らかな男性の声で、笠井さんは店長さんなのかな、と思ったそうだ。
名前を告げ、届いたピザが何切れか入っていなかったんですけど——そう言った途端、相手が息を呑んだのが分かったという。
絶句と言って良いくらいの無言の後で、
『申し訳ございません。こちらの手違いで失礼いたしました。すぐに代わりの商品と交換に参りますので。もちろんお代は返金させていただきます』
打って変わってすらすらと、おそらくマニュアルがあるのだろう謝罪の文句を告げられた。そして、また声のトーンが変わる。恐る恐る……といった調子で訊ねられた。
『ちなみに笠井様、ピザは何切れ欠けていましたか?』
マルゲリータピザは三ピースなかったと答えると、男性はなんだか安堵した様子だった。
『ああ、三つですか』
電話口の向こうで「三切れだったらまだ大丈夫だな」「とりあえずは良かった」などと他の店員らしき話し合う声も聞こえた。
どういうことだ? 笠井さんは訝しんだ。
『笠井様、照り焼きチキンのピザもご注文だったかと思うのですが、そちらは問題ありませんでしたか?』
「あーそれが、そっちは一枚丸ごと入ってなかったんですよ」
笠井さんが応えると、男性の声が裏返った。
『いちまっ……一枚全部、なかったんですか?』
先ほどよりも長い、狼狽を感じる沈黙が続いた。引き攣ったような息の音。男性の背後が騒がしくなる。
ふざけんなよ。
一枚全部ってどうするんだよ。
こんなことなかっただろ。
クソ、そうだ今日十七日じゃねえか。
とりあえず先生に電話だけしといて。
嘘だろおい。
——ほとんど怒鳴り合っているような声だったという。
『とにかく、すぐに謝罪にお邪魔させていただきます』
震える声でそれだけ言われ、電話は切れた。
「なんなんだよ……」
笠井さんは唖然とするばかりだった。友人たちから「どうなった?」と訊かれても首をひねるしかない。
二十分ほどしてドアチャイムが鳴らされた。黒いスーツを着た小柄な中年男性がハンカチで汗を拭き拭き立っていた。
「笠井様、このたびは本当に申し訳ございませんでした」
声で、電話に出たあの男性だと分かった。男性は分厚い白い封筒を笠井さんに差し出した。受け取って中を見ると、十万円も入っていた。
「こちら迷惑料と思ってお受け取りください。そして、こんなことを言うのは心苦しいのですが……もう今後、当店を利用しないでいただきたいのです」
「どういうことですか」
「笠井様の安全のためにもそうしていただきたいのです。本当に申し訳ございませんでした」
何を訊ねても「申し訳ありません」の一点張りで、とうとう笠井さんは根負けした。男性はピザの箱を受け取り、笠井さんたちが電話の後で手をつけていないか再三、確認してからとぼとぼと帰っていった。
何が何だか分からなかった。手元に残された金額の大きさに「口止め料なのだろう」と感じ、ただ不気味だったという。
救いだったのは友人たちがみんな楽天的だったことで、
「よく分からないけど、もらえるものはもらっちゃいなよ」
と言われてその晩は早速、普段は手の出ない高級な寿司の出前を頼んだそうだ。
それから一度だけ、奇妙なことがあったという。
ピザの一件から三日ほど経った、ある日の大学帰り。マンションのエレベーターを降りると通路が酒臭かった。見ると、笠井さんの部屋の玄関前の床がびしょびしょに濡れてコンクリートが真っ黒になっている。日本酒をぶちまけられたらしい。
「まぁ、それは誰か同じ階の人が買い物の帰りに落として割っちゃったってだけかもしれないですけど」
くだんのピザ店は、ひと月後くらいにたまたま前を通りかかった時には既に閉店していたらしい。今ではそのチェーン自体が、かなり縮小してしまっているそうだ。
宿屋ヒルベルト
本業は編集者。
仕事でのリサーチをきっかけに本格的に怪談蒐集を開始。
初の著書『怪の帖 美喰礼賛』が8月29日発売。
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『怪の帖 美喰礼賛』(竹書房怪談文庫)