シーンで活躍する怪談語りを深堀りするインタビュー企画「怪談語りがたり」。
4回目は住倉カオスさん。
怪談番組MC、イベントオーガナイザー、作家、ギタリスト、猥談家など様々な肩書をもつ彼の物語とは?
(インタビュー・写真●怪談ガタリー編集部)
血の池地獄の隣で
——住倉さん、今日はどうぞよろしくお願いします。さっそくですが、幼少期はどのような子供でしたか?
「福岡生まれで、親父が別荘を売る不動産の仕事をちょっとしてたみたいで、多分幼稚園か小学校上がるくらいまでかな、大分の別府と湯布院に住んでました。別府の時に住んでいた家は『地獄めぐりコース』の血の池地獄の隣だったらしくて」
——地獄の隣に民家があったんですね(笑)
「家の柵を越えるともう血の池地獄で。よくそこに入り込んで遊んでいたらしいんだけど、ちょっと記憶にない。湯布院の頃はね、もう家が源泉かけ流しなのよ。冬は水道管が凍るからちょろちょろ流しっぱなしにしてて。24時間いつでもお風呂入れるから、朝起きたらまず服脱いで風呂が当たり前。だから、福岡に戻った時に、朝起きて風呂飛び込んだら水でびっくりして。なんでお湯じゃないんだ!? って」
——自然豊かな場所だったんですか?
「観光用だけど馬車が走ってて、横を流れている川でスイカ冷やしたり、そこに鮎が泳いでたりとかしていたから、自然はほんとに豊かでしたね。で、ちょっと幼稚園から家まで距離があったから、あまり近所の同い年の友達いなかったんだよ。もちろん幼稚園に行ったら遊べるんだけど、家帰ったら隣に住んでるちょっと年上のお姉さんとかが少し遊んでくれるだけで。1人遊びが得意で、山の麓なんだけど、風景が季節ごと、時間ごとに変わるのをずっと眺めて1日過ごしてました」
——ご兄弟は?
「姉貴がいるんだけど12歳年上で。その当時は福岡でじいさんばあさん家から中学に通ってたから別に暮らしてたんだよね。だから一人っ子みたいな感じで。家では本読むのが好きで、なにを読んでたかはあまり覚えてないけど、レコード付きの絵本とか、テレビ君みたいな特撮ヒーローモノの雑誌とか繰り返し読んでて」
——漫画とかテレビは?
「漫画は小学校で福岡に戻ってから読むようになったかな。テレビは放送局が少なくて、あまり観てなかった。あ、でも強烈に覚えてるのが当時おふくろがワイドショーみたいな番組観てて、ナスターシャ・キンスキーの『キャット・ピープル』の予告がやってたんだけど、それがめちゃくちゃ怖くて外に逃げ出したの、続き見るのが嫌で。でも、頭の中で続きが想像なんだけど勝手に再生されて。どこまで逃げても、続きがめちゃくちゃ再生されるのがずっと怖いと思ってて。で、中学ぐらいに『キャット・ピープル』を観たんだけど、それが想像と同じ内容で」
——めちゃくちゃ不思議ですね。
「すごい不思議だった。おふくろがとにかく映画好きで。赤ん坊の頃から毎週末名画座に連れられてジャンル問わずに新作2本立てを必ず観てたんだけど、赤ん坊の俺が泣き出すと口と鼻押さえてたらしくて(笑)。毎週映画館で映画を観るっていうのは当たり前のことになってるんだけど、それはおふくろの影響だね」
——当時観た特に印象深い映画ってなんでしょうか?
「なんだろうな……やっぱり『スター・ウォーズ』の衝撃に勝るものはないかな」
カブスカウトの夜に
——オカルトへの興味はいつ頃から?
「オカルトブームの最初の世代だからね。小学校の時に『ムー』とかがあって、図書館行くとカッパノベルスの心霊写真、TVでは『あなたの知らない世界』。みんなと一緒だよね」
——『ノストラダムスの大予言』以降は、オカルトが日常に溢れてましたよね。
「あとは水木しげる先生や、つのだじろう先生の漫画なんか、とにかくもうみんな好きだったからね。エドガー・アラン・ポーやラブクラフトなんかも結構読み漁ったけど、それが特殊なことだったかというと、そんなこともなくて。っていうか、みんな読んでた。文学的なものも好きなんだけど、『ムー』の心霊用語辞典みたいなのが好きで、ポルターガイストとか、スポンティニアス・コンバッションとか用語が載ってるんだけど、どっちかって言うと民俗学的なアプローチだったり、ドキュメンタリーっぽいルポ的でドライな読み物、そういうのが1番好きだったな」
——怪談に初めて触れたのは?
「ボーイスカウトの前身のカブスカウトに入ってたんだけど、ある時にカブスカウトとボーイスカウト合同のキャンプがあって。キャンプファイヤー囲んで肝試しをやるんだけど、その時に引率の大人が怪談をするのよ。『とある大学に死体安置所があって、夜になるとガスの溜まった死体が浮かび上がってくるのを棒でつついて沈めるバイトをしたことがあるんだよ。そこで宿直してたら、廊下からピチャピチャって音がする。なんだろうと思ったら遠くの方でドアが開く音がして、ここじゃないって声が聞こえてくる。そのピチャピチャって音がだんだん近づいてきて、とうとう宿直室のドアの前まで来る。するとドアが開いて……ここだ!』って」
——王道のジャンプスケア怪談ですね。
「怪談、怖い話って、小泉八雲の『怪談』とかがあるのは知ってたけど、いわゆる語りで、人を怖がらせるということ自体を全く知らなくて。なんだこれは!? と思って、衝撃だった。これだけ沢山の人間の前で話をして、その話でぐーって引き込んで、感情をぐわって揺さぶれるのが凄いなと思ったの」
——なるほど。
「で、カブスカウトは小学生だから早めに寝るんだよ。そしたら、さっきまで怪談話してたその引率の大人が、ボーイスカウトの中学生ぐらいの子たちを集めて、夜中に話をしてんだよね。『お前らな、あの女はうざいとか、女嫌いとかって言ってるけど、それ今だけだからな。同級生の女の子たちが、胸が膨らんできて、真っ白な太ももがぷるんぷるんで、お前らもたまんなくなるからな。その胸とか触ったら、どんな気持ちがするか分かるか?』ってエロ話してる。中学生の男子たちが息もせずに聞いてて、これが大人の男なんだ……ってまた衝撃で。だから、俺の中の大人の男、かっこいい男のイメージっていうのは、怪談と猥談ができる人なの」
——今の活動の源流、原体験がその日だったんですね。
「完全にそうですね」
ギターとカメラと
——キャリアのスタートは?
「高校卒業後、映画の学校行ってドキュメンタリーを専攻してたんだけど、個性の強い人間がわらわら集まるから、衝突が多かったのよ。で、映画の現場やっぱ大変だなと思って。なので、卒業して東芝EMIの映像部に入った、音楽も好きだったからね」
——住倉さんと云えばギタリストとしての顔もお持ちですが、当時から弾かれてたんですか?
「高校時代から弾いてて。プログレ、ブルース、フリージャズとかが好きだったんですよ。でも周りにそんな人いないから、バンドとかもやってたんだけど、ロック好きのギター、ファンク好きのドラム、フュージョン好きのベースが集まって、みんなの最大公約数的なとこで、プログレフュージョンのバンドでした(笑)」
——当時は趣味として?
「その当時はプロ志向ではなかったね。でも、やってみたいなって気持ちはあって。だから東芝EMIを辞めた後に、イタリアとフランスに約1年ぐらい行ってた。イルカム(フランス国立音響音楽研究所)っていう現代芸術の研究所に聴講生として潜り込んだりとかして。フリージャズのミュージシャンやりたくて、でも絶対食えないから、昼間は整体師やろうかなって。フリージャズって、呼吸法とか、体のバランスとか結構考えてて、昼間整体師やって、夜はフリージャズのミュージシャンとかやったらちょうどいいかなと思って」
——海外から戻られて、その後はどうされたんですか?
「まず、学費を稼ごうと思って。たまたま声かけて貰った派遣会社でSEの仕事をやりながら、夕方になるとジャズ喫茶行って……みたいな生活をずっとやってたんだけど、遊びにお金使っちゃうから、全然貯めらんない。で、付き合っていた女性に愛想つかされて別れるのよ。で、うわーってなっちゃって。その時に俺は趣味と仕事を分けるってのは無理だな……好きなことを仕事にしなきゃダメだなと思って。やっぱサブカル的で、映像的に変わったことがしたいなって気づいてV&Rに入った」
——鬼畜系の文化が華やかな頃ですね。
「最初はADで入って、その後パッケージのプロデューサーに抜擢されて。そしたらだんだん写真の方が面白くなってきちゃって。その時グラビア雑誌からヘッドハンティングされてミリオン出版に移って」
——ミリオン出版ではどんなお仕事を?
「編集者としてグラビアをやってたんだけど、だんだんカメラマンっていう人種が面白く感じて。そのうちカメラマンのドキュメンタリーなんか撮ったりしてたら、自分もカメラやりたくなっちゃって。それで、戦場カメラマンの取材とかに同行するようになって。編集者からカメラマンに、グラビアから実話系の雑誌に軸足が移っていった」
——そのタイミングで有名な「貯水槽殺人事件」の取材を?
「うん、貯水槽の事件をカメラマンとして調べていく中で、不思議なことにちょいちょい遭うようになって、これはなんか面白いなと。で、ちょっと離れてたんだけど、超常現象的なものは元々好きだったから。そこから心霊取材モノDVDのプロデュースをするようになって。でもタレントさんとか使うとお金がかかるから、もう手っ取り早く自分が出ちゃおうってなって、そのうちテレビに呼ばれたりするようになって」
——その当時の怪談シーンは?
「ミリオンでやってた心霊とかオカルトとか実はルポに近くて、怪談ではないんだよね。そんな中で、稲川さんやタレントさん以外で怪談を語る人がいる、語る文化があるってちょっと夢にも思わなかったのよ。で、怪談好きな人が集まって怪談会をやっているって聞いて、最初に出会ったのがDJ響さんだった。そういうカルチャーと繋がりが出来て、ファンの人たち同士が交流できるような不思議SNSっていうのを会社の事業として立ち上げたのよ」
——響さんとはその当時からの仲なんですね。
「やがて今に繋がる怪談カルチャーの人脈が出来ていって、怪談会に来ていた人や、仕事で出会った人の怖い話をちょっと集めていこうと思って。百万人の怖い話YouTubeを始めたの。初期の頃は顔隠して語ってる人が結構いるんだけど、あれは自分の体験を語るって趣旨で。体験をした本人が直接話すドライな感じが好きだし面白いなと思って」
そして住倉さんは怪談賞レース『怪談最恐戦』を立ち上げる。
この続きは次回。